まるで最初から決まっていたかのように。

 作詞家の松本隆さんは良いフレーズが思い浮かんでも決してメモをしないらしい。先日視聴したTV番組で語っていた。


 いわく「良い言葉はメモなど取らずとも覚えているし、忘れるなら忘れる程度のことである」と。


 たしか、桜井和寿さんも同じようなことをおっしゃっていた。


 いわゆる“ネタ帳”が大学ノート30冊を超えてきた私には耳が痛く、お恥ずかしい話である。小説やこの文章などはその場のインスピレーションに任せているが、作詞に関してはもう過去の己に助けられっ放しといったところである。


 と、そんな十年以上前のメモから、こんな詞が出てきた。


≪こんなはずじゃなかったと

 ロープは揺れる 君が揺れる


 まるで最初から決まっていたかのように≫


 まとまりのないメモ用ノートの、さらにまとまりのない一節でしかないので意味不明なのはご容赦いただきたい。


 しかしこの≪まるで最初から決まっていたかのように≫とはまったく手前味噌ながら興味深い。


 日々、死を想い、自殺について考え続け、同胞に手紙を書き続けていると「彼が彼女が死んでしまったのは、本当にどうしようもなかったのだ」という気分になるときがある。


 死の欲動だタナトスなどと高尚な概念を打つつもりはない。


 人生の旅路は、GPSも方位磁石も地図さえも持たず、地平の果てまで広がる何もない平原で“真っ直ぐ歩いた先”を目指すようなものだと思う。


 ほとんどの人は直進などできないだろう。


 必ず、右か左かに重心が偏り、あらぬ場所に辿り着き首を傾げることになる。


 途中、自分の足運びに左曲がりの癖があることを誰かから指摘されしくは自ら気付き修正したとしても、結局のところ、行きつくのは“左の場所”だ。


 我らの中の、特定の遺伝子か、脳神経か、はたまた今もって実在の疑わしい魂か、そういった生まれ持った性質が、どうやっても“自殺”にしか向かわん人というのがいるのかもしれない。


 いや、“自滅”といった方が近いか。


 自らを自らによって破壊する形でしか生きることができない。


 おそらくは私も、その一員であろうな。


 短いメモの一節から随分と遠い場所まで来てしまった気がする。


 しかし思えば、この文章もまた、私が死ぬまでに続けた考察の長大なメモ帳であるのかもしれない。


 松本隆氏には呆れられそうである。


 

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