真面目さについて。
昔はよく真面目な人間だと言っていただくことがあった。
害の無い評価であるから強く否定することもしなかったが、「別に真面目でもなかろう」とも思っていた。
万事において、やる気も根気も無かっただけのことだ。
わざわざ好きこのんで悪行をしたり、逸脱したりする気力が無かった。
そしてもちろん、学校に通い続けるようなエネルギーも持ち合わせていなかった。
いなかったのではあるが、ここから間の抜けた笑い話になる。
私は、不登校も一日しか持たなかったのである。
両親が急にうるさくなり、教師がドヤドヤと家に上がり込んできて、このような面倒くさいことになるなら、おとなしく登校した方がいいと判断した。
これは、私の心身に対し明確に着実な負荷を与え続ける行動であった。
なので、20歳になる手前で見事に折れた。
出社拒否を繰り返し、立派な社会不適合者となったわけである。
とはいえ、どちらにせよこうなるしかない道の上、身の上に生まれてしまったのだろうなという諦観が、今はある。
根本のところで、生きるために必要なエネルギーが不足しているという問題があるからだ。
私は、虚無的な思考(思想)に引き寄せられるような形の脳か、神経が上手く働かんか、恐らくそういうものとして生まれ出でて、そういう風にしか生きることができないようになっていたのだろう。
私のようなものは、珍しくもないはずだ。
そして、そうした類の人間が、ある意味ではかなり雑な区分けで“真面目”という引き出しに分類されてしまっているのではないか。
これはあまりよくないと思う。
不良になるほどのエネルギーも無いだけの、実は何らかのケアが必要な人間をほったらかしにしてしまう仕組みが、社会にはありそうである。
それは、苦しみを増やすことになる。
人間社会には『何もしないこと』をもって“良い子”と呼ぶような、かなり問題のありそうな教育的手順があるではないか。
何もしないことは、確かに何かをするよりはずっと良いかもしれない。
しかし、何かをすることが美徳とされている(はずの)社会で何もせずにいる子供がいる場合、それはいかがなものか。
その子たちは「何もできない自分」に苦しんでいるのではないか。
そういった子供たちに「何もしなくていいんだよ」と我らの社会は言ってあげられるだろうか。
何事かを為す者を褒めることを、我々はやめられるだろうか。
褒められるところの無い人物を無理やり褒めるために持ち出される“真面目さ”という烙印ごてを、我々は捨てられるだろうか。
うむ、期待薄だな。
友よ、このあたりは個々人でやっていかねばならんようだぞ。
他者からの曖昧な評価を蹴飛ばす心根を持つことだ。
否定も肯定もせず「そりゃどうも」と返す心意気を宿すことだ。
そんなものは心底「どうでもいい」と捉えられる内心を鍛えることだ。
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