2W1Hを済ませたら、スイスにでも行こうか。

 少し前に『愛の不時着』を観終わった。


 韓国ドラマなど滅多に観ないが、食指が伸びなかっただけで十分に面白かった。


 一話ずつが映画並みに長いが、飽きない笑える話が続くのでネットフリックスに加入していたらぜひご覧いただきたい。一つだけネタばらしをすると、韓国人と北朝鮮人は文化どころか文明さえも大きな隔たりがあるが、サッカー日韓戦だけは心をひとつに応援できるらしい。よいことである。


 というところで今日ふと思い出したことがある。


 この物語の発端は、主人公のセリが安楽死を求めてスイスに旅立ったことだ。


 財閥令嬢でありながら婚外子、およそ家族からは愛されず、鬱病、不眠症、ドラマではある程度ギャグの扱いだが食も細い(不時着した北朝鮮の村ではタガが外れたようにバクバク食べるが)、愛情も栄養も自己評価もまったく足りていない精神的にはほぼ瀕死だがしかし、安楽死(薬剤による自殺幇助ほうじょ)は認められない。


 そもそも条件がかなり厳しいらしく、年間でも安楽死が認められるのは数百人から千人程度、年間万単位の自殺者を出す日本から見れば少数だ。需給が合致していないと見るか、これくらい間口を狭めなければならん政治的な事情と見るかは、私には判断がつかない。


 ドラマでもサッカーでも物語や試合の締め方が重要だ。


 人生は必ず終わらせねばならない。


 そこに必要なのは「いつ」「どこで」「どうやって」の2W1Hのみだ。


「何を」と「誰が」と「なぜ」はいらない。


 死ぬことは生きる上で自然に起こる生理現象なので「何を」も「なぜ」もいらず、死ぬのはいつだって「自分」でしかないからだ。


 話を戻す。


 死の2W1Hを穏当な形で満たしてくれるのが安楽死である。


 しかしそれは、とてつもなく困難でもある。


 我らは未だかつて誰も「ここまでやれば生き切った」といえる確固たる指標を示せていない。


 私などは人生にも命にも何の意味も価値も認識していないので、そこのところはまったく適当である。適当であることが許される類の人間だ。


 だが多くの人々は違うであろう。


 人生に意味があると、命には価値があると思うのならば、それが行きつく最終目的地をしっかりと定義せねばならない。


 でなければ、いつまでたっても納得して死ぬことができない。


 何をどうしたいのかも分からんまま生き続けることになる。


 これは相当に苦しいのではなかろうか。


 生きる理由が「生きたい」という欲と「死にたくない」という不安だけになる。


 欲と不安は、放っておけば無限に膨れ上がる。どこかで諦めなければ、いくら食っても腹がならん餓鬼道に堕す。それでもどこかで必ず終わりが来るのだが、欲と不安で頭をいっぱいにしたまま死ぬというのは、少なくとも健やかではあるまい。


 納得するか、諦めるか、どちらかが必要ではないかと私は思う。


 それができたら、いよいよ「死に方善し」だ。


 そうなったときに安楽な死があれば、なお善し、である。


 スイスでの安楽死が認められなかったセリは、観光を勧められる。


 風光明媚なスイスの景色を見ていると、かなりの人は死ぬ気持ちが薄れるそうだ。


 私はどうだろう。


 むしろあまりの美しさに「ここを臨終の地としよう」と逆方向の決断を下してしまいそうな気もする。友よ、あなたはどうだろう。


 それはそれとして。


 スイスか、一度行ってみたいものであるな。

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