健康な死を迎えるためのメメント・モリ。

 夏のぼんである。


 宗派にもよるが、昨日や今日で墓参りに行く人が増える日だ。キュウリの馬に乗って死者が家に帰り、ナスの牛に乗ってまた墓に戻っていく。逆だったかもしれない。それも宗派によるだろう。


 なんであれ、死後にもその人の霊魂や生きる世界(あの世)があるという信仰は、強弱あれどいつまでも続いていくだろうと思われる。


 なんとなれば、我らは「死ぬことを知っていてなお生まれ続ける」強烈な生き物だからだ。


 ふと、ひとつの仮説を思い付いた。


 この広い宇宙で、地球外の知的生命体が接触してこない理由だ。


 彼らは、最終的に無に帰すだけの命を生み出し続ける虚無に耐え切れず、自ら絶滅の道をとったのではないか


 死を知るほどに発達した知性は、不老不死を目指すか集団自殺を敢行するかのいずれかなのではないか。


 それはせいぜい与太としても、「死なねばならん」というまさしく破壊的な事実をどう処すか。


 我々地球人類も、先進国、第一世界と呼ばれている人々から順次、知性が与えた大いなる宿題を後回しにし続けることはできないだろう。


 宗教、信仰はまさに、そうした宿題に対する苦心の回答だ。


 しかし、満点ではない。


 満点ではない問題に、人は満足できないようにできている。


 だから今も、生きている間は死への恐怖を「今ではない」と先延ばし、死してなお「魂を安らげる」「死者を弔う」といった宗教的行事をもって自分たちの納得できぬ内心を濁し続けている。


 早晩、とは言うまいが、いつまでもこのままというわけにはいかないはずだ。


 我々は「空の下産まれ土に還る」類の自然の営みからは外れてしまった動物だ。


 文明人は誰もが天井の下で生まれ、病院か介護施設のベッドで息を引き取る。


 生誕も死亡も、大自然の掌上しょうじょうではなく、自分たちで選ぶ道をとってしまった。


 そういう在り方を選んでしまったが最後、死だけをナイーブに悲しんでいるわけにはいかない。


 我らは、死に方を選ばなければならない。


 さもなくば、いつまでもこの苦しみと悲しみからは抜け出すことができない。


 抜け出さなくてもいいか。


 艱難かんなん辛苦あっての人間だと思うか。


 個人の思いがけとしては否定しないが、広く人間という種族はそんな高尚な在り方を選べない。


 ヒトが苦痛を苦痛のまま受け入れるほど強く賢い種であれば、そもそも霊魂も宗教も発生していない。


 より苦しみを減らす方へ、より楽な方へ向かうのが人間だ。


 その在り方もまた、否定されるものではない。


 むしろ積極的に肯定できるものだ。


 だからこそ、我らはみな、健やかに死ぬ方法、哲学、宗教を考えねばならない。


 まずは温故知新といこう。


 お盆に墓を参り、死を想うのだ。


 夏のメメント・モリである。

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