自由について。
自由を奪う欲望の塊について。
先日、スマートフォンを買った。
買い替えとか、機種変更とかではない。
つまり、私は先月まで、還暦過ぎの老人でもないのに、この2021年の地球上でスマホを持っていない人類だった。
清潔な水や医師すら足りていない第三世界の住人すら(何故か)iPhoneだけは持っているというこの2021年に、である。
とはいえ、スマホを買う以前から、FacebookもTwitterもLINEもメールも、そしてカクヨムも使い倒していたので、特段、生活がガラリと変わったということはない。
だが、ひとつだけ、これは恐ろしいと思ったことがある。
これまでいちいち数十秒から数分かけてPCを立ち上げないと開かれなかった各種アプリケーションが、ほんの数秒で見られる。
これまで、PCを閉じている間は創作や読書といった『一人の時間』だったものが、手軽にネット接続するガジェットを手にしたことで、曖昧になってしまった。
繋がりとは、言い方を変えれば、他人に振り回される時間が増えるということだ。
つまり、自由が奪われる。
そこに、ほのかな恐ろしさを感じている。
それというのも、私は本来的に俗物で、自制心のある方ではないからだ。
すぐ低きに流れ、淀み、濁る。
欲望に囚われ、不自由になってしまう。
自由でいる、とは何か。
それは、欲望がもたらす不安をいかに小さくできるかということに尽きると思う。
欲のままに食べ過ぎれば、下痢など内臓の不調から肥満、糖尿、心臓病にいたるまで様々な不安に囚われてしまうことになる。買い物であれば貧困、それこそスマートフォンにかかりきりなった生活は、睡眠不足の不安に苛まれる。
欲しいままに求める我ら人類は、多くのテクノロジーを生み出した。
しかしあまねくそれらは、「あれば便利」なものから「無いと困る」ようになるまでほんの一瞬だ。我々は車も電車もない、徒歩のみの生活に戻れるか。個人では可能だろうが、社会全体としてはもう不可能だ。速すぎる世界で、交通事故の不安に苛まれながら、我々は欲望が生み出した塊を動かし続けるしかない。それは、とても不自由な様だと私は思う。
生きることについても、同じことがいえる。
生きたいという欲は医学の発展を促したが、それで本当に良かったのだろうかという内省、省察は為されない。
もう我々は、平均寿命五十年だとか四十年だとかでは満足できないよう、身体を開発され、精神を調教され尽くしてしまったからだ。
死への諦観、無常観など持ちようがないほど、徹底的に躾けられてしまっている。
これに関してはもう少し長く書きたいことがあるので、次回の手紙でより詳しく語ろうと思う。
一応、今日の便りを締めくくるため、ここで話を最初に戻す。
いろいろ考えた結果、私はスマホを普段使いしないよう外出用のバッグに入れっぱなしにしておくことにした。
それでは連絡が届かんではないかという知人友人もいるが、「たわけが」と返しておいた。
人がいつでもどこでも連絡を取りあえてしまう状況が異常だとは思わんのか、と。
繋がれぬ時間が作り出す尊さを少しは感じてみよ、と。まぁ、そのようなことを、やんわりと伝えておいた。
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