我々の情愛を奪う“恨み”について。

 人類史を書いた本など読んでみると、どうやら緩やかな狩猟採集社会の中にあっても、独歩自立も叶わぬ高齢者は、若者の介護を受けていたらしい。


 ここからは私見なのだが、私は、別にかの高齢者たちが何らかの役に立つから大事にされていたわけではないと思っている。


 ある程度はそういう面もあるだろう。あの時代の“死に損ない”は“生き残り”である。狩猟に適した場所、生活の知恵、特殊な技術など、重宝されるものを持っている可能性はある。


 だが、基本的には、年老いた年長者を憐れんで助けてやろうという気持ちが勝っていたと考える。


 なんとなれば、狩猟時代のホモサピエンスの群れ―――数十人から百人くらいの社会で、要介護高齢者になるほどの長寿は多くて4人か、5人か、せいぜいその程度だろう。それをみんなで世話するならば、大した負担にはならんからだ。


 間違っても、時としてたった一人の職員で10人以上の認知症患者たちを見るような非人道的な現代の介護施設とはわけが違ったはずだ。


 今の感覚で太古を見ると、つい高齢者の“生産性”に目を向けてしまいそうになるが、そんなものは必要なかったと、私は思っている。


 当時の平均寿命は30歳も無かっただろうか。


 狩猟社会では、猛獣や災害に襲われるなどの身体的な危機のみならず、病気がはびこり、飢餓も絶えなかっただろう。


 逆にいえば、そうした大自然の営みの中にしか危険はなかった。


 だからこそ、弱った人間を憐れむごく自然な情動のままに、他者を大切にできたのではないか。


 社会が作り出した諸所の不安、車が生み出す交通事故、電話がもたらす振り込め詐欺、そうして“資産”なるもの“財産”なるものを失った辛苦で自殺し始めたのは、さて、人類発祥から何百万年目の話なのだろうな、友よ。


 他者の死が、誰か同族の「あいつ」や「こいつ」のせいになったのは、いつからだろう。殺人の歴史は、文明の歴史より長いか、短いか。少なくとも、自殺よりは長かろうよ。


 しょせん動物の仕業である。時として、まったく理由の分からない、じゃれ合いの延長としか思えぬ形で、同胞を殺害してしまうことはある。それは分かる。


 しかししかし、タガの外れ方にも限度があるぞ。


 いったい地球の長い長い歴史上、ここまで同種同族に殺される不安に苛まれている動物が、我らのほかにいただろうか。自ら「死なねばならん」などと傍目には不合理極まりない希死念慮に苦しむ生物は、我らのほかにいるだろうか。


 私たちは、生き物としてすっかりどうかしてしまったのだ。認めねばならん。


 すべては、寿命が延びたことにつきる。


 逃れられん怪我と病気と老衰から逃げられるようになったことで、我々は「死んではいけない」などという摩訶不思議な道徳を産み落とした。


 だが、「人がなかなか死ななくなった」は、「死ぬ理由が増えた」と同義だ。


 その増えた死因によって、我らの間に増えたものがある。


 うらみだ。


 犯された恨み。


 殺された恨み。


 長く生きる“べき”世界で短命に終わる恨み。


 これら長寿がもたらした恨みのせいで、私たちの中からは、情愛がすっかり擦り減ってしまった。


 後戻りなどできない。今さら三十路を迎える前に死ぬ生活には戻れない。よく分かる。このようなことを書き連ねる私もまた、俗物の一人だからだ。


 若死にとともに情愛を減らし、寿命とともに恨みを増やし、何もかもできるようで実のところとても不自由な、やたらと長い私たちの人生はもう、どうしようもできない。


 こうなったら、行くところまで行くしかないのではないか。


 要するに、「いつまでも生きられるが、いつでも死ねる」そんな社会を作らねばならないのではないか。


 長くなってしまったが、次の手紙も、もうしたため始めている。


 今回私自身も侵しているとある陥穽かんせいについて語ろうと思っている。

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