どうか、積もることなき雪であらんことを。

 今は亡き母によると、私が生まれた日は、雪が降っていたそうだ。


 雪とは不思議なものだ。


 一つ、二つの粉雪であれば、地面に落ちた傍から水になっていくばかりであるのに、次から次へと降り続けるごとに、白く深く積もり積もる。


 こうなってくると面倒だ。大抵は地熱などで自然と溶けていくが、そうでなければ雪かきをせねばならない。凍結する場合もある。高架や屋根に積もればなおさら危険なものとなる。


 私が生まれた日には、そのようなものが降っていた。


 その日のうちに死んでおくべきであったと思う。


 空から降るただ一粒の結晶のように、生まれた瞬間さっと溶け消え去っておけば面倒なことにはならなかったのだ。


 いたずらに積もらせておくには、この命はあまりにも空虚だった。


 何に対しても、真に喜びを感じられない。


 しかしそれは普通のことではないのか。


 我々は死ぬ。何をしようと、無に帰す。


 そのような人生に、心の底から感じられる喜びなどないだろう。同じく、悲しみも、憎悪も、幸福も、不幸も、すべては糾える縄であろうよ。順にやってきては消え、また新しくやってくるだけの事故だ。


 だから、我々が生きていることには何の意味もないし、命には何の価値もない。これもまた同時に、死ぬこと、殺すことにも何一つ意味も価値もないだろう。


 違うだろうか。


 みな、何をそんなに懸命に生きておられるのだろう。


 そんなに力いっぱい生きて、夢見て、愛して、恨んで、憎んで、産んで、殺して、騙し合って、幸せを求めて、何がしたいのか。


 どうせ死ぬのだぞ? と、釈迦に説法を一人一人耳打ちしたくなる。


 私のような俗物からは、修行僧のように見える。


 さっぱり分からん。


 ついていけん。


 いやいや、私は俗物なので、まったく気持ちが分からんというわけでもない。


 度が過ぎていると申し上げたいのだ。


 夢があるのは分かる。だが、身体を壊さんばかりに努力するのは分からない。


 人を好きになるのは分かる。だが、相手にまでその気持ちを求めるのは分からない。また、愛されないからといって恨んだり憎んだりするのも訳が分からん。好きでいられれば満足ではないのだろうか。


 苦痛を取り除くだけでは飽き足らず、幸せになりたいと思ってしまうのも分からない。幸福になれば、つまり何を得れば、絶対にいつかそれを失い不幸になる。「痛くない」「苦しくない」で十分ではないか。


 さて。


 友よ、私の話は伝わっているだろうか。


 他の小説は「特に読んでくれなくてもいい」と思って書いているのだが、この手紙はそうではない。


 ある程度、読まれることを希望して書いている。


 なので「何をいっているのかさっぱり分からん」と思われると、少し困るのだな。


 ちゃんと伝わっているのか、自信がない。


 生まれてこの方、他者と話が通じたと実感したことがないので、当然か。


「通じた」と思うことはなくとも、常に「通じてないな」と思えているのなら、まだ、何らかの望みはあると考えるべきだろうか。


 ひとつだけ分かって欲しいのは、私は一般的な価値観を知り、理解しようと努力したということだ。


 それは徒労に終わった。

 

 私に、この世で生きられる場所は、無いようだ。


 だからこそ、あの雪の日、何も分からぬうちに死んでおくべきだったのだ。

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