あなたに訊きたい話

どのみち、受け入れるしかないことについて。

 寒くなってきた、と思ったら、ふと残暑のような天気雨など降り出して、気温がまた持ち直してきた。


 今年の秋は、あまり寒くない。冬はどうだろう。が、そもそも、あなたの暮らしている街がどうであるのか私は知らない。とりあえず、今年もなんのかんの、のらりくらりと生き延びてしまえそうな塩梅である。友よ、あなたの日々が、その仕舞いまで少しでも暖かいものであればいいと思う。


 仕舞う、ということについて考える。


 人間は、産まれた分だけ死んでいく。


 いつかは死なねばならんわけで、そのための仕舞い支度は、いくらやっても足りないことはなかろう。


 特に、心の準備だ。


 朝目覚め、今日中に死ぬことが分かったとして、どうするか。


 一旦は、途方に暮れる時間が必要だろうな。


 いわゆる、『否認・怒り・取引・抑うつ・受容』と呼ばれるプロセスを大急ぎで消化せねばならん。


 いかに、それまでの人生で死について深く考え、思い巡らし、諦観と覚悟をもって死を受け入れたと思っていても、やはり実際にタイムリミットを差し出されると、どうしても“平時”とは違う反応になってしまうだろうと思う。


 自殺もだ。平静で計画していたことを、土壇場で翻意する自殺志願者は、大勢いる。口さがない人々は「臆病風に吹かれた」などと嘲笑するのかもしれないが、仕方ないではないか。


 死とは怖いものだ。


 何しろ人間は、死を回避すべく、それに対して恐怖を覚えるようになっている。以前にも書いたが、死ぬのが怖いからといって、それを恥じる必要はない。そういう風になっているのだ。


 そうはいっても、別段、強がりも悪いことではない。


 恐怖を恥じ、「私は死など怖くない」などと言い出せば、まさにそれが“否認”であろうよ。「私が恐怖などするはずがない」と叫び出せば、立派な“怒り”だ。うむ、受容への段階を着々と歩んでいる。その調子である。


 いずれにせよ、「来るものを受け止める」しかないわけで、そこで取る仕草に優劣はあるまい。


 ただ、どのような考え方をするのであれ、できることなら最終的には“受容”つまりは静謐せいひつなるぜんをもって自らの死を迎え入れたいものではある。


 禅や瞑想について深く掘り下げる知見は無い。私は落ち着いているように見えて、結構せかせかとしているので、じっとしていられんのだ。輪廻解脱の境地には辿り着けそうもない。


 最近は小説を書きつつライブの予定なども多く入り、我ながらアクティブな日々を過ごせている。


 大いに笑い、歌い、クタクタの身体を電車で揺らし、地元に帰り、飯を食い、床に就く夜などは「余は満足じゃ」などと思ったりする。「もう明日など来ていただかなくて結構」と思ったりもする。


 無論、そんな都合のいいことにはならず、その日に感じた上質な満足感は、時間の波がすべて攫って行く。


「なんであのときぽっくり死んでしまわなかったのだ」と自分自身に腹が立つこともあった。


 が、「死ぬにはうってつけの日」を求めるのもまた、よこしまな執着であるような気もする。


 死んでもいい日を増やすよりかは、いつ死んでもいいと思えた方がいい。


 やはり、禅か。


 ひとまずは、一日五分でいいからじっと正座して瞑想などやってみようか。


 友よ、あなたはどう受け容れる。

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