人生に負けは無い。だからこそ、辛い。

 どうにもならないことばかりである。


 すっかり詰んでいるのに、投了もできない。まんじりともせず座り込んで、にっちもさっちもいかんようになった盤面を眺めて、時間切れの声を待つばかり。


 そんな、どうにもならないことが、人生には多くある。


 私も、特に学生時代がそうであった。


 何をやるにも身が入らぬ。


 根っから芯からやる気の無い空虚な気質を指摘され続けた。


「どうにかしなきゃいけないぞ」と年長者から言われ「なるほど、どうにかせねばならんのか」と思いつつ、何ともできぬまま、ただ時が過ぎ、卒業、進学、就職と共に「終わったことになる」のを待つばかりだった。


 そして、何事も成せず、この社会を“成員”として生きる力量も身に付かぬまま、階層だけがいたずらに上がっていくのである。


 これはいつか必ず、何もかも駄目になる時が来るぞと思った。


 会社員になって二年目で、心身のすべてが壊れた。人は、良い予感も悪い予感も、よく当たるようにできている。


 今はどうしているかというと、壊れっぱなしである。覆水盆に返らずだ。


 否、破壊されたのは徹頭徹尾、できもしない適応を試み続けた嘘の自分だ。


 壊れた自分を抱えて生きているような悲壮感はない。


 生まれ持った気質に対して、嘘を吐かず、正直に生きるよう努めているといった方が正しいか。生まれたときと同じく空虚なまま生きて死ぬのだ。


 若くして老後に入ったかのような、居心地の悪さと心地よさを感じる。


 冒頭に戻ろう。


 私の人生の盤上は、消えがたく詰みを示している。


 分かった。


「ありません」


 何も起こらない。


 もうやることが何もないのに、終わらないのである。


 暇だ。


 しょうがないので、益体もない小説をまたもう一本書くしかない。


 そうやって、残りの寿命を消しゴムのようにすり減らし、できたカスの塊がこうした文章である。


 この無意味さ、なかなかに好ましい。


 だが同時に、絶対的な敗北に打ちひしがれてみたいとも思ってしまう。


 人生には、負けが無い。


 人生は、その持ち主をグッドルーザーにさせてはくれない。


 それは、人生に明確な勝者などいないことと表裏一体であるが、ひとまず“負け”に焦点を合わせておく。


 生きている間は、誰も「参った」と言わせてくれない。


 ある種の、敗北の安寧というのか、そういうものが無いのだ。


 私などはその中途半端さにすら安息してしまって、何やら心穏やかになってしまっているのだが、辛苦を感じている方もおるやもしれん。


 人生のギブアップは、まさしく自殺の事である。


 潔く負けを認め、死ぬというのなら、止めることは、誰にもできぬだろう。


 友よ、あなたは負けをはっきりとさせたいか。

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