私が考えるほどでもないこと。

「死にたい」と言ってくる友人がいる。この手紙やブログのコメント欄のことではなく、いわゆる“リアル”の場所でだ。


「死にたい」という言葉に、私は何も言い返さない。


「もう少し話せるなら続けてくれ」と言うことはある。


 話の内容についても立ち入らない。


 死にたい理由を話してくれてもいいし、なんなら今日の雲行きの話でもいい。


「死にたい」は一つの会話の糸口である。あとに続く言葉がもっとも重要だ。


 そうして語ることによって、だいたいの人は少し気楽になれるものだ。


 そうではない人もいる。 


 だが、それは特に、私が考えてやらねばならんことではない。


 希死念慮、自己評価の低さ、劣等感といったものを愛玩動物のようにギュッと抱えて、今にも落ちそうな低空飛行のまま天寿をまっとうするという生き方も、まったく“アリ”だと思う。


 幸福は、趣味である。


 水や空気のように、生存に絶対必須の物ではない。


 無論、今そこにあったり、傍にいたりする物や人を指差して「あれが私の幸福である」と言うことは良いことだと思う。


 だが、遠い地平の先にある、手に入るかどうかも分からないし、そもそも蜃気楼かもしれんものを見据えて「あれが幸福だ」というのは、辛いばかりの渇望だ。


 この世が、自らのたゆまぬ努力と研鑽の果てに望むものを得られる世界ならばそれもいいが、残念ながら、我らは生まれる場所すら選ぶことはできない。死に場所は、さて、どうだろうな。


 以前にも書いたことだ。私は“幸福”を『人生の目標』なる玉座から蹴り落とし、雑多な嗜好品の一つとして扱うこととした。幸福であろうとすることは私の視野を狭め、辛苦を与えることにしかならなかったからだ。そうでなくなった今は、たいそう気楽である。


 と、こんな話を人前ではしない。


「死にたい」と言われても、余計なことは言わない。私は、人の話を聞くだけだ。


 生き方は各々で決めればよろしい。


 ただ一つ「~であらねばならん」式の話を始めたとき、たとえば「幸せになれなければ生きている意味は無い」などと言われたときは、やんわりと「それはどうかな?」と言うことはある。


「そもそも人生に意味など無いし、命に価値など無いよ」などとは言わない。配慮無き本音は暴言に等しい。


 もしそうしたことを言うなら「あなたに必要なのは本当に“意味のある人生”なのかな」と問うかもしれない。いや、別に言わないが。


 気楽に言ってくれ、友よ。


 私は他者の「死にたい」を大仰に捉えたりはしないから。


 

 

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