「死にたい」について
ふと湧き上がる心地の良い希死念慮。
秋である。
まだ暑いという方もいるだろうし、もう寒いという方も当然いるだろうが、だいたい秋である。そういうことにしておこう。
今一つ気持ちの乗らん2020年の夏ではあったが、その分やってくる木枯らしに気を落とすこともないのではないだろうか。
そんなことはないか。
秋は自殺の季節である。日本では特に9月1日に自殺が集中するようである。気温が下がると身体も弱くなり、脳や神経などの働きも落ちてくる。秋はうつの季節である。
ゆめゆめ気をつけよ、などとは、ゆめゆめ言うまい。
気分が落ちるなら落ちるままに、死にたくなれば死にたいまま、適当にやっていかれよ。
私も今日は何か、久方ぶりに自分の命を終わらせてしまいたい欲求が、ふんわりと芽吹いている。
とはいえ、それほど嫌な心地ではない。
かれこれ二十年付き合ってきた希死念慮だ。それはもはや私の一部であるから、古い友人が顔を見せに来たかの如き気安さと親しみを感じる。
私は、私が生きる価値というものを一つも認めていない。ゆえに殺す価値もないから、「死にたい」が深刻な問題ではなくなったのかもしれない。
恐らくだが、私にとってはもう、「死にたい」は「食べたい」とか「歌いたい」とか「映画を観たい」といった、ありふれた欲求の一つでしかない。
自分の存在を、この世からすべて消し去ってしまう妄想をする。
自分の死を想う。
あれは痛そうだ、これも痛そうだ、それは苦しそうだ。
やめとこうか。
……。
しかし、しかしだ。
「いかにして死ぬか」は常に考えておかねばならない。
こうしてたくさんの手紙を書き続けてきてより強く思ったことだが、特にこの国で暮らすうえで、『即死』は絶好機だ。
痛みも苦しみも最小限に終わる『即死』という最上の死に時を逃したが最後、医療の手にかかっていたずらに生を引き延ばされ、赤子と違うところのない老人と化して長い死への滑走を続けねばならなくなる。
我々はつい、生ばかりを野放図に引き延ばそうとしてしまうが、どれだけ長く生きたとて死なねばならない。
この宇宙にさえも寿命があることを、忘れてはならない。
そのような舞台で踊る上で「死にたい」の欲動を、無視してはならない。
そういった話を、できたらいいと思っている。
友よ、まだまだ、お付き合いいただけるか。
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