生きる理由に足る、死ぬ理由。

 人間には生きて死ぬに足る理由や意味、価値など見つけられないし、そもそもそんなものは無い。


 下手な考え休むに似たり。といったところで本題は以上。本日の蛇足といこう。


 私は、インフルエンザになったことが無い。


 花粉症もない。打撲以上の怪我もしたことが無い。


 ウイルスにはかかっていたが症状が無かったのかもしれないし、鼻水や目が痒くなるといった代表的なアレルギー反応ではないのかもしれないし、実はあの湿布で収まった痛みは打撲ではなく、ごく軽度の亀裂骨折だったのかもしれない。


 だがとりあえず、無いことにしておこう。


 しかしながら、以前も書いたように、私は神経が細く脆弱であるために、やや深い切り傷や、少々多めな虫刺され程度にも耐え難い痛痒(文字通りである)を感じてしまう。


 傷口の状態や細菌感染などが気になって不安になり、なかなか寝付けなくなってしまう。


 と同時に、そんな自分の状態に笑えてしまう。


 やってくる苦痛に備え、随分と活き活きしているな、と。自分の命などどうなってもいいのではなかったのか、と。


 確かにそうだ。ならなぜこんなに精神的に参っているのだ。と思えば、その日は床に就くのが遅く寝不足であったことが明らかとなる。


 結局眠いだけか。と、自分をせせら笑って翌朝目覚めれば、深夜の焦燥は霞のように消えている。


 何とも滑稽である。

 

 代わりに、いつもの無味無臭な違和感が全身を覆う。


「ただ漫然と死んでいくしかないように生まれてきた私」をまさしく全身全霊で受け止める作業を始める。


 一生とは、ゴールも、足切りタイムもないマラソンである。


 走る者、歩く者、立ち止まる者、座り込む者などがいる。その誰もが、どこにも辿り着くことなく死を迎える。


 芥川龍之介は「ぼんやりとした不安」の中で自殺したという。


 いつまでも焦点が合わない、近視の世界とでもいえようか。


 私は近視だが、死生観という意味では視界良好、もしくは盲目だ。


 すべてが虚しい。


 この世の一切に意味も価値もない。すべては壊れ、失われる。何も残らない。


 そういった益体もない認識を、無視し、自らの腹の底に重石付きの蓋をして、社会の成員よろしくやり過ごせていた時期もあった。


 もう無理だ。私は誰よりも私自身に嘘を吐き続ける不毛に耐えられない。


 確かなことは、苦痛だけではないだろうか。


 死の苦しみを回避し続けるために生きる人々。生がもたらすあらゆる痛みを無に帰すべく死を求める人々。


 老衰と自殺。延命措置と治療拒否。緩和ケアと安楽死。


 私にはそれが、最終日まで夏休みの宿題を溜め込む者と、七月中に終わらせる者の違い程度にしか思えない。


 つまり、大した話ではない。私にはとっては。


 八月になった。


 長かった梅雨もようやく明けた。蝉の無遠慮な歌に目覚めたのが、今日のハイライトであった。


 





 

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