希死念慮は狂気か。

 やがてはすべてが無に帰すと知りながら、ある行為を続けるのは苦痛である。


 自分を埋める墓穴を掘るのであればまだましで、掘った穴に盛り土を返し、また掘ることを命じられるようなものだ。我々はそれを賽の河原、もしくは単に拷問と呼ぶ。


 私は、生きるとはそのようなことだと考えている。


 近い将来死ぬと分かっていながら生き続ける。不毛。その無為な作業に耐えかね、「死にたい」となるのは当然の帰結と思う。


 ゆえに、希死念慮は精神的に狂った状態ではない、と考える。


「自殺など、正気の沙汰ではない」などの意見には反対だ。


 が、正気だ、狂気だと言い立てることにもうんざりとしてしまう。


 他者の狂気、穏当に書けば不適応的認知を指摘する人間の正しさは誰が保証するのか。などと書くと、話がこれ以上進まなくなる。


 そうさな。


 正気や狂気は演繹えんえきできない。といったところでどうだろうか。


 自殺であれ過労死であれ、あくまでも、それぞれが行ったのを見て帰納的に「この行為は正常」「これは異常」と推定するしかない。


 どこまでいってもカッコつきの“仮”がつきまとう。


 要するに、同じ穴のむじな同士で正しいだの狂っているだの言い合うのはよしてくれ、ということだ。


 我らは恐らくもう少し、簡潔な次元で物事を動かしている。


 死を知ってなお出産を続けるのは、性行為の快楽に抗えなかったからだろう。


 生の無意味を知ってなお生き続けるのは、何はともあれ「痛いのは嫌だ」からだろう。


 他の動物もしばしばそうするように、弱った者や老いた者を助けようとするのは、愛着のようなものが備わっているからだろう。


 また、もう少し高い舞台の話をするならば、我々は“社会”という、それ自体に新たな人間の出生と、永い生存を要求される機構を創り上げ、そのシステムに自らを絡めとった。人が、社会に労力と生命力を供物として奉じ続ける信徒と化して久しい。


 負担は分散されたが、天に祈りながら選ばれし生贄を火にくべる時代もしくは地域と、大きな違いがあるとは思えない。それを狂気と呼ぶのであれば、我らが生きる社会とやらも、十分に狂気的である。


 そんな狂徒の一員になることを恐れ、自ら死を選び退場する。私はそれも相当に正気と思えるのだが、どうであろうか。


 いずれにせよ、正しいとか、正しくないとか、まったく不愉快な言い合いにはほとほとうんざりしている。


 我々には常に、ただ生きているという、何の意味もない不毛な事象が続いていくのみである。私は何もできんし、何もしたくないが、それでも何かあったら、コメントでも書いていくといい。必ず返信するというわけでもない。あくまでも、どこまでも適当にいこうではないか、友よ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る