理性の奴隷。

 部屋にやや大きめのクモが一匹、入り込んでいた。


 ちょこまかと逃げ回っていたのをようやく捕まえ、外に出した。


 殺したりはしない。ゴキブリなど、ついうっかり叩き潰してしまうこともあるが、基本的には非殺生でいたいと思っている。


 ならば菜食主義者なのかといえば、そんなこともない。


 食肉用の家畜は「食べるのだから殺しても良い」と思っている。異論はあるだろう。受け入れる。反論はしない。


 とはいえ、害になるわけでも食うわけでもないのに殺すことはまかりならんと思っている。「気味が悪いから」という理由でそこらを歩いているだけのクモだのゴキブリだのを殺したくはない。


 あと、切り花も好きではない。仏花を二週間に一度のペースで備えなければならないのだが、嫌である。人間の勝手な都合で根を切られた花が枯れていく様を見るのは忍びない。それこそ、食うわけでもないのだ。既に死んで、この世にはいない人間のために供えられる花だ。あんなものが慰めになる感性というのが、この世にはあるのだな、と、素直に感心する。


 虫も花も、自分や他者が死んだ後のことなど、何も考えていないように見える。


 彼らはただ、生きるために生きている。


 それが私には、好ましい。


 何の意味も理由もなく、産まれ、生き、時に生み出し、死んでいる。簡潔だ。


 生まれ持ったさがのまま、そうなるように生きている。


 ひるがえって、我々はどうだろう。


 我々人間は、今も昔も、そして恐らく未来でさえ、余計なことばかり考えて生きていることだろう。


 死ぬと分かっていて生み出され、百年と経たぬうちにやはり死んでいく。


 その人生の様を説明する言葉は、ほかの生と同じく“無意味”で十分だ。


 何の意味もなく生まれ、何の価値もなく死んでいく。その事実を、あるがまま受け入れるだけで済む話だ。悩むことも迷うこともなかろう。


 しかし、そうは問屋が卸さない。


 我々は、無意味であることに耐えられない。


 それは、いわば理性の奴隷だ。


 虫や、他の哺乳類が本能のままに生きて死ぬのとは逆に、人間は、肥大した脳がもたらす理性に絡めとられ、自家中毒を起こし続ける憐れな病人だ。


 意味がないことに思い悩み、死に何やらの意味づけ、命に何らかの価値づけを行いたいと欲望するあまり、余計なことばかりして、余分なものばかり作って、同類同士で激しく殺し合う。


 意味不明。

 理解不能。


 クモもゴキブリも目ではない。この世でもっとも気味の悪い生物は、私やあなたが鏡の前に立ったときに現れる。


 理性の奴隷が、本能の奴隷に勝っていることなど、ほとんどない。


 唯一、向上心が挙げられるかもしれないが、それにしても目的がない。ゴールなきマラソン。勉強のための勉強。百階建てのビルを作ったら、次は百一階を作ろうと言い出す。永遠なる不満足。やまぬ渇き。バベルの塔はそうして叩き折られた。めでたしめでたし。


 友よ、これでは何も考えずに生きるのと変わらぬな。


 我々は、結局、何かを考えているようで、何も考えてなどいないのだろう。

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