今の私は、果たして、何者なのであろうか
先日、とあるレビューをいただいた。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054888097541/reviews/1177354054895043859
『次第に、“私”という主語が希薄になっていく』と指摘された。
鋭い評論であった。
友よ。
今の私を、どう思われるか。
「この期に及んで、お前は自殺なんかしないだろう」と言われれば、「そうだな」と答えてしまいそうだ。
おかしい。私も、一人の自殺志願者であったような気がするのに。いや、そんなこともないのか。
いつしかテーマが“自殺”という狭いものから、広く“死”を取り扱うようになっているように思う。
遠くまで来たものだと思いつつ、実はまだ十万字を少し超えただけの文量だ。
私の、他の小説をざっと見て頂ければ分かるが、十万字はいつでも超えている。
むしろ、超えてからが本番だ。
私が死ぬ一日前まで、だらだらと続く類のものだと思って下され。
では、最初の問いかけに戻り、自答してみよう。
私は、居所のない人間である。
この社会にはまだ、私のような者が据わりよく収まる場所というのがない。
私のような者とは、つまりスキゾイド的な人格。空虚な人間のことだ。
私の放った“空虚”という文字列に、自虐の響きを感じた方がいれば、優しいあなたに「それは違う」とお答えしよう。
私は私の空虚さを好ましく感じている。
空虚であるとは、つまり、気楽であるということだ。
何事にも、意味も、価値も感じない。これほど気楽なことはない。
しかし、それだと渡世が上手くいかぬのだ。
自らの真義・教義に面従腹背して、「私はこの価値ある命を以て、なんらかの意味ある人生をまっとうしていきたいのです!」と、絶叫せねばならん場面というのが出てくる。
学校で。
会社で。
家で。
これが、たまらなく苦痛であった。
遠い昔、信仰する主の息子の顔を踏まねば処刑された隠れキリシタンたちの気持ちが少し分かる。しかも私には「踏むが良い」と心中に語りかけてくれる慈悲深いイエス様がいない。
「その程度のごまかしくらいみんな大なり小なりやってるんだから文句を言うなよ」と言われるやも知れない。
が、私にはできなかったのだよ。
すべては無意味だとしか思えない。むしろ、無意味にこそ安らぎを覚える空虚な心に、「人生には意味がある」という嘘は猛毒であったのだ。
頼むから、無意味だと言わせてくれ、空虚なままでいさせてくれと、頭を抱えて発狂してしまったのである。
そんな人間の居場所は、まだこの世界には、ない。
いつかはできるのだろうと思う。
だが、私が生きている間は無理であろう。
ただ、仮宿は見つかった様な気分にはなっている。
それがどこかはお教えしない。
友へは何事も嘘なく、つまびらかに書き連ねている手紙ではあるが、秘密の一つや二つくらいは、持っていても良かろうと思われるからだ。
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