新たな、思索の日々

商人の言葉が、人を殺すか

 友よ、元気か。元気である必要はないが。そうあってくれたらいいと思う。


 しかし、なんというのか、連日、まるで今日にも世界が終わってしまうような騒ぎではないか。


 突如としてやってきた突然死サドンデスの世界というわけでもなかろうに。


 逆にいえば、ほぼ世界中の人間が、生老病死について考えを巡らせているというのは、健全な状況なのやも知れぬ。


 事ここにいたって、私は、こう思った。


 資本主義が、人類の意識から死を奪い続けていたのではないか。


 死なれたら物が売れぬ。


 生きていれば、金を使ってくれる。


 故に、「人は死んではいけない」という無茶苦茶な標語が、大手を振るようになってしまったのではないか。


 今、資本主義経済の歯車は、ギシギシと歪みを上げ低速運動に転じている。


 多くの人々が、もうひらかれたようになっているのでは。


 考え過ぎであろうな。忘れてくれ。いや、少しだけ覚えていて欲しい。

 

 かつて、私は『自己肯定感』なるものについての疑義と批判を行った。


 あれも、広く言えば経済に対する不審な思いを言葉にしていた。


 曖昧な承認の言葉は、容易く商人の言葉に置き換わる。


 自己肯定感がないと幸せになれない?


 なるほどしかし、人間はそもそも幸せになるために生まれたわけではない。


 我らが生まれたことに意味など無いし、生きていることに価値など無い。反対に、死んでいくことに意味は無いし、殺すほどの価値もない。


 すべては死という穏やかなさざ波がさらう砂浜の絵図だ。


 命を生かすうえで必要なのは心肺機能や代謝能力やその他の生理現象。

 幸福でもなければ、自己肯定感や愛着や、愛情、友情でもない。

 食って寝て、糞尿を垂れていれば人は生きて行くのである。

 余計な物を勝手に付け足さないでいただきたい。


 幸福、つまりひと時の快楽が欲しければ、それはセロトニンやドーパミンがもたらしてくれる。私はよく日課のランニングに行くとき「では、セロトニン(とドーパミン)を食らいに行くか」と呟くが、なかなかにおすすめだ。汗と共に、神経伝達物質、快楽物質をドバドバ出すのだ。


 今一度。


 この世に数多ある商人の言葉に耽溺たんできしてはならない。


 ひょっとしたら、あなたを自殺に追い込むのはそういった戯れ言であったかもしれないからだ。


 我々は、ここにきて立ち止まって物を考える機会を得た。


 友よ、共に、思索を続けようではないか。

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