「死にたい」の意訳

 以前にも書いたが、『人間失格』の主人公は、結局、自殺していない。


 恥の多い生涯を恥じて死ぬこともなく、ただ最初からそうであったように空虚な自己を抱えたまま、なんとなく生き続けている。


 名作とは賛否両論、毀誉褒貶あってこそだ。主人公がいけ好かないのであれ、妙に共感できてしまうのであれ、読んだ者に語りにくい感情を残したのであれば、きっと太宰治も草葉の陰で喜んでいることだろう。


 私はといえば、こうした旧い名作を読むことは、ある種の“勉強”だ。


 なので、正直なところ、頭の悪さも手伝って「読みづらい」というのが一番の感想になってしまう。太宰も夏目も何だか難しい。芥川は割合すらすら読める。川端はその中間くらいで、島崎は一度ならず挫折して、いつかまた再挑戦する予定だ。現代でいえば、村上は春樹より龍の方が読めるが、それより大沢在昌や夢枕獏に手が伸びる。


 閑話休題。


 葉蔵(『人間失格』の主人公の名前)の空虚さというのは、身に覚えがある。


 “生き応え”とも言うべき感覚を受容する能力が欠落しているので、この世をどう生きてよいのか分からず、他者の言動に唯々諾々と従い、また状況に流されるまま、根無し草に放蕩の生活を続けてしまう。


 そこで、自身の虚無に折り合いを付けて、「それでよし」とできればいい。これが、今の私だ。


 そうではなく、「何らかの生き甲斐を探さねば」と、不毛な奮闘を続けると、葉蔵のようになってしまうのではないだろうか。 


 ここで、この手紙の一通目に再び目を通してみよう。https://kakuyomu.jp/works/1177354054888097541/episodes/1177354054888725104


 私はまさに、生き甲斐の受容体喪失者として悪い方向に行っていた。


 なくてもぜんぜん支障の無い「生きる気力」を捻り出そうとして四苦八苦し、その自家中毒として、自殺を企図していた。


 その自殺未遂にも、切迫感がない。


 別に死にたかったわけではないのだから、当然だ。


「死にたい」ではなく「よく分からない」のだ。


 生きることが、それほどの大事と思えないから、『人生には意味がある』『命には価値がある』といった世の中の適応的な価値観についていけず、「自分は間違っている」と己を責め苛んでしまう。


「このような人間が生まれてきて申し訳ない」ということだ。『人間失格』だ。


 今は、すっかり開き直っている。


 失格結構。非人間上等。その日暮らしで死に向かえ。


 無駄な懊悩おうのうの時を過ごしてしまったものだが、知見を得た。


「死にたい」という言葉は、「生きることが分からない」と意訳できる。


 そして、「分からないままでも別に構わない」ということだ。

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