前書き―ある自殺志願者の思考
死ななければならない。
まったく我らの社会で生かすに値しないこの命を、爪さきの一片も残さず抹殺せねばならない。
2010年12月。私はとある会社の独身寮で、床に膝を抱えて座り込み、
夜勤の出勤時間が迫っていた。だが、頭の中は「死」で埋め尽くされている。行かなければ。
社食の美味くも不味くもない夕食を済ませたあとに“発作”がやってきた。以前働いていた別の会社でも同じ症状があった。かなり厳しい納期があり、不得手な対人折衝を強いられた繁忙期のある日だった。
これをこの日までに必ずやらなければいけない。
やらなければ、“義務”を果たせない。“借り”を返せない。
私をこの歳まで育てるまでには、少なくない数の社会資源と他者の労力や、少なくない額の財源と資本が使われているのだ。せめて、最低限、その借りは返さなければならない。自立。労働による賃金で、生活の衣食住を成り立たせなければ。それが、この社会で生きる自分に課せられた義務である。と、そのように考えていた。
だからこそ、やらなければいけない。生産管理。工場での納期管理。今日も職場は夏と機械の熱がこもり、大変に暑い。会社の作業着など誰も着ていない。タンクトップ一丁の従業員に嫌な顔をされながら、仕事を急かさなければならない。
嫌だな。
怒られたくないな。
従業員からの叱責を免れても、今度は持たされた社用の携帯電話が鳴り、得意先に「あれはどうなっている」と尖った声が耳に届くのだ。
別に、やらなくてもいいか。
いつの間にか、私の足は止まっていた。
『結局、最後は死んでしまうのに』
それを考え出すと、もう一歩も進めなくなる。ならば考えねばよかろう。左様。正解だ。しかし、不可能だ。
なんとなれば、「人間は必ず死ぬ。故に人生に意味は無く、命に価値は無い」という思想は、私という人間を形作っている核の部分である。ざっと遡って、十歳よりもっと以前から、「どうせ死んでしまう」という思いを抱き続けている。
それを抜いたら、私は私でなくなる。というより、私が私であることなどどうでもいいから、そんな思想は抜いてしまいたいのだが、そのようなことが全然、できなかったのである。
空虚。
人生の万事に、この言葉が付き
まるで、穴の開いた風船。底の空いた
それではいけない、と思った。ならば、自分が生きてきた分の資源財源、完済の目途も試算も立たぬが、そういった借りを返すことを義務として生きていこう。そう考えて、職に就き、働きだした。
しかし結局、義務感だけで駆動させた身体は動かなくなってしまった。その日の業務は何とか終わらせ、その次の日は無断欠勤、どころか、家からも出ていった。死ぬためだった。だが、数日の放浪の後、帰ってきた。生きることと同様に、死ぬことも無意味だと感じたからだった。
十九歳の夏だった。ややあって仕事には復帰したが、今度は会社の方が不景気に耐えきれず倒産した。そうして再就職した二社目で、またも私は動けなくなっていた。二十一歳の冬。
「もう、終わりにしてくれ」
涙と鼻水が止まらない薄汚れた顔でそう呟くが、真っ暗な部屋に応えるものはない。目を閉じれば闇、開いても、闇。上場企業の工場が立つ田舎町の堤防沿いは灯りが少なかった。
次こそは、と思っていた。そう語ると嘘になる。年若い自分を慮ってくれた世話人の気持ちと労力を無下にもできなかった。面接など落ちればいいと思っていたら、受かってしまった。
とはいえ、自分にはこの
あれから、九年が経った。
今も私は生きているが、空虚な精神構造は何一つ変わっていない。ただ、それに思い苦しむことはなくなった。
二度目の就職が失敗に終わってから、音楽批評の真似事などしていたブログに、ぽつぽつと自分の話を書き始めた。自分と同じような人間に対する手紙という意味を込めて、『親愛なる自殺志願者へ』なる柔らかで剣呑な題名を付けた。
長い前置きとなったが、今一度、自らのここまでを振り返る意味でも、瓶に詰めた手紙のような文章を、再びネットの海に流していこうと思う。
どうか、“友”の下へ届かんことを。
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