何故、人は自殺するのか。

何故、私は死にたかったのか。

「死にたい」という言葉を、今まで何度吐いたことだろう。誰にも理解されない私の空虚さが、何度私に自殺を思い起こさせただろう。


 今こうして思い返してみれば、物心ついたときから、「自分も他人も、形あるものはすべて死んで、消え去ってしまうのだ」という、明言化できない確信があった。


 空虚。そう、自分には、何もない。自分の内から湧き出る感情、喜怒哀楽、欲望、主体性、自尊心、そういったものを、何一つ見出せなかった。


 故に、生きていることは無意味だと思い、存在していることは無価値だと思い、死んでいくことには何の感情も湧かなかった。


 また、そういう自身の本質を、誰にも理解されなかった。


「生きること、死ぬこと、自分を含む命というものに、興味がないんです。なにをしても、ただただ虚しいだけなんです」


 そう心の内を明かした時に浴びせられる、否定・拒否・拒絶の言葉たち。


「それではいけない」


 何がいけないのか。


「そんな考えではこの先やっていけない」


 何をやっていくのか。


「ならば今すぐ死んでしまえ」


 然り。反論のしようもない。


 しかし。


「自分はいつか必ず死ぬ。そしてそれは決して自ら操作できない運命である。殺害、事故死、病死、老衰、自死ですら、自分ではコントロールできない。成るがままに生まれて、為すがままに死んでいくしかない。だから、生きて何をしようと一切は何の意味も価値もない。それらがあると感じることができない。感じたいとも思わない。そんな自分に、心底満足している」


 それの何がいけなくて、何が悪いのか。


 分からない。だが私は、両親・先生・年長者・先輩・上司・その他多くの人の言うことをよく聞いて素直に実行する“いい子”であった。空虚故に、他者の価値観をそのまま受け取り、“やっていこう”としてきた。


 自分には少なくない社会からの資源、財源、もしくは誰かの資産が使われている。今世の社会で生きていくのなら、せめてそれに多少なりとも報いられる人間にならなければいけない。たとえ空虚であったとしても我慢してやらなければいけない、と思ってきた。


 しかし、義務感だけで駆動させる人生は必ず壁にぶつかる。参加したくもない競争、やりたくもない労働、そこに僅かでも生存欲求や自己実現欲求があればまだ耐えられたが、私にはそれがない。であるから、長くても三年と持たず、必ず潰れるという繰り返しに陥る。


 何かを成そうなどと思わないまま何かを学び、生きていたいなどと思わぬまま働き、自分の空虚さを否応もなく発見し、誰かの期待や善意やアドバイスに応えられなかった自分を恥じ、絶望する。


 その絶望の果てにあるのが「死にたい」という自殺願望/希死念慮である。


 地獄。


 この世界で“普通”に生きていこうとすることが、私にとっての地獄であった。


 そして、私は、それと分かっていても地獄へ向かうことでしか生きることができなかった人間であった。


 人に言われるがまま地獄に向かい、当然のように苦難にぶつかり、倒れ、動けなくなった身体を飴細工の鞭で打たれて立ち上がる。そういうことを繰り返すことでしか、生きていけなかった人間であった。


 そのような空虚な人生にうんざりとして、そういった自分の本質が社会の誰にも受け入れられないことが、私の希死念慮の根本である。


 しかしながら、「死にたい」という欲求さえもどこか虚しいと感じる。自分の内側が絶対的に空虚であるからか、死ぬことにすら意味を見出せない。これまで目立った自殺企図もなかったのは、そういったところにあるだろう。

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