何故、彼らは死んでしまったのか。

 永遠に更新されることのない誰かの日記を、私は三冊ほど所有している。


『どう生きたところで、死んでしまえばすべては無に帰す。そんな虚しさから脱せるような、生きる意味や目的を探していたが、そんなものは無かった。もう疲れた』


『自分の弱さこそが、この結末に至った原因。強い人間、この社会で、戦い、騙し合い、潰し合い、殺し合い、奪い合う、そんな生き方ができる人間に、どうしてもなれなかった。なりたくなかった』


『I was born. 産まれさせられてしまった。忘れられない虐待の記憶を生涯引きずって生きていくような、そう感じずに済む境遇に産まれたかった』


 彼ら彼女らの心は、この世界で“やっていけない”という惨めさに満ちていたように読み取れる。そしてそれは、恐らくその通りなのだとも思う。なぜ分かるのかというと、私もまた“やっていけない”類の、物事をてきぱきとこなせず、それ故の強い希死念慮がある、弱い気質と空虚な人格を持った人間だからである。


 私の最期も、恐らく彼らとそう変わらぬものになるという予感はありつつ、ただ、今は「自殺はしないんじゃないか」という確信に近い気持ちもある。何が自殺した彼らと違うのか。

 

 八十代、おおよそ平均寿命まで生き切って老衰。五十代で大病を患って早死に。まだ若いといえる三十代で自殺。


 乏しい人生経験の中で、私はこの三世代の死を目の当たりにしてきた。


 どれがいいか、と問われると、どれでもいい、と答える。というか、どうでもいい。選べない。なるようになる、としか思えない。


 どんなに前世で徳を積もうと、生んだ人間が悪ければ虐待もされよう。

 どんなに落ち度がなかろうと、性根の悪い人間の悪意には殺されよう。

 どんなに注意深く歩こうと、集中力のないドライバーには轢かれよう。

 どんなに健康だろうと、細胞は癌化し、動脈瘤はでき、病にはなろう。

 どんなに頑張ろうと、社会で上手にやっていけなければ自殺もしよう。

 どんなに長生きしようと、いずれやがて自動的に最期は来るであろう。


 もう、人が人であって、社会というものが運用されていく上で発生する構造的な欠陥としかいいようがない。生き方など、死に方など、『天を運に任す』以外にどうしようもない。ホモサピエンスを辞める以外に方法が思い浮かばない。


 故に、私は納得している。生が辛く苦しいことに。死が理不尽であることに。人生が約束された死への旅程であることに。


 そうして、私の思考から自殺という選択肢は、取り除かれた。


 自殺した友たちは、それができなかったのかも知れない。


 生がもたらす苦難と虚しさに耐え忍ぶ日々の中、ふと隣を見れば、そのようなものとは無縁―――に見える―――誰かの姿がある。


 この人生は、間違っている。こんなはずではない。私の命は、こんな形であるべきではない。


 もっと幸福で、もっと喜びにあふれ、苦しみより楽しみが勝る人生。夜は眼が冴えて眠れず、朝は鉛のように身体が重いのに、それでも毎日働く。悲鳴を上げる身体を無視して、壊れ行く精神に鞭を打って。そんなことをしなくてもいい人生があるはずだ。だって、現にはやっているじゃないか。


 努力すれば、我慢すれば、頑張れば、それが掴めるかもしれない。絶対に幸せになるんだ。


 そして彼らは死んでしまった。


 強く、幸福で、意味がなど、どこにもなかったはずなのに。無論、愚かな推測である。そんな私の愚かさに当人らから反論が来ることは、もう、無い。

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