正しさの空虚さ
新海誠監督の『天気の子』は観ただろうか。
私は観た。
良い映画であった。
もう一度観に行きたいと思いつつ、貧乏暇だらけな人間の金銭的事情で踏ん切りがつかないでいる。
私の心許ない財布の中身については読み流して頂くとして、今回は“正しさ”について書く。
どう生きれば正しいかなど、言われなくても分かっている。
問題は、その正しい生き様が、どうにも空虚なものとしか感じられないことだ。
一つ、架空の話をしよう。
どうしても働くことができない、貧困な男がいる。
彼がやるべきことは大きく分けて二つだ。
役所に行き、書類を揃え、生活保護を受け取るか。
もしくは、何らかの職に就き、賃金を受け取るか。
しかし、彼はどちらもできない。
もはや、彼はその生きるために正しい行動を起こす気力すらない。
何故なら、今すぐに死ぬのと、“正しく”生きて天寿をまっとうすることの間に、明確な差を見つけられないでいるからだ。
また、他者の説くお仕着せの正論にうんざりとしている。
だから、彼は自殺した。
一つ、心優しい友の為に注釈を付けておくと、これは、私の境遇や心境ではない。
人生に意味も価値もないと納得しているので、今日死のうと五十年後に死のうと同じことだとは思っているが、空虚に満たされ、自殺願望が首をもたげることはない。
“彼”と私を分かつものは、正しく生きる意志の有無ではないかと思う。
正しく生きようとすると、人は虚無に堕ちる。
正確には、その正しさの行きつく場所が、結局のところ、“死”であることに虚無を感じる。そして、気力を失い、正しく在れない自分に絶望し、死を希求するようになる。
その点、私は、私という人間を凡庸で、(社会に適応的であるかという意味で)間違っていると感じているが、その在り方に気楽さを感じ、へらへらと生き続けている。
私は、不真面目なのだろうな。
生きることが正しいとも感じていない。生も死も、不可避の現象だと捉えるようになった。災害のようなものだ。災害に正しいも間違っているもない。
故に、自殺が間違っているなどとは決して思わない。思わないが、どうせいつかは死ぬのだ。自決や自裁するまでもなく。
友よ、生命活動を止める前に、まだ辞めるべきものがたくさんあるのではないだろうか。
そして、正しさを捨て去った先にある放蕩と享楽を貪るのは、なかなか良いものである。
『天気の子』は、主人公が、あるべき正しさに目もくれず、ひたすらに駆けていく爽快な映画だった。
今日は9月の12日、まだ公開している劇場もある。共に観に行こうではないか。
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