脅しはもう通じない

 また暑くなってきた。


 親愛なる自殺志願者の皆さまはどのように過ごされているだろうか。ちゃんと部屋にクーラーは付いているか。付いているだけではいけない。点けなくては。うむ、すまない。筆が滑っておかしなことを書いてしまった。


 これを書いているのは夕刻だ。関東地方を襲った台風も一過した。今日は何人が仕事に出かけ、何人が休業になり、何人が自主的に休んだだろうか。分からないが、少なくとも、三番目の人物が一番少ないことは、想像に難くない。


 人は誰も、「働かねば生きていけない」などと思ってはいない。


 ただ、「働かねば生きていけない、という設定を心に定めていないと、出勤を続けることができない」と思っている人はいる。


 かくいう私がそうであった。


 私は、死で自分を脅しつけないと通学も通勤もできない人間だった。「本当は行きたくない、やりたくない」という気持ちを抑えつけるには、「やらなければ死ぬ」と思い込むしかなかった。


 この書き方だと、やけに深刻な精神状態だが、自分で自分を追いつめていると同時に、どこか安心感もあった。


 内心はどうあれ、“普通の人間”、“社会人”としての作業をこなせているというのは、それなりに自信でもあったのだ。


 私は凡庸な人間である。どういった事柄でも、はみ出すことに不安を覚える。だが、どうしようもなく定められた枠の外に身体が出て行ってしまう。才能は無いが、個性だけはある。お褒めに与れない類の変人。これはもう、認めていかねばならないだろう。


 そんな自分が、正常な人間として正当に立ち回れている。それは大いに自尊心をくすぐっていたし、ある種の誇りでもあったと思う。


 しかしながら、しょせんは砂上の楼閣である。「これとこれとこれとこれをしなければ死ぬぞ」と自分を脅し、将来への不安で自身を駆り立ててきた歴史はつまり、緩やかな自殺でしかなかった。


 そして今、私は死を脅しとして使えない。


 何故なら、死ぬことが恐ろしくないからである。


 そもそも、『死ぬことが恐ろしい』という感覚自体、自身についてきた嘘だったのかもしれない。


 何度も繰り返しているように、死は万人に訪れる当たり前の現象である。何かをやらなければ死ぬというなら、それをしていれば死なないとでもいうのか。馬鹿馬鹿しい。人生に意味や価値のあることなど一つとしてないが、大変無駄なことに摩耗させられてしまったのは、なんとも苛立たしい。そんなことをしている間に、読めた小説や観られた映画が両手で足りぬほどあったというのに。


 猛暑と台風を枕に、長い愚痴を読ませてしまった。申し訳ない。


 だが、死で自身を脅しつけている感覚があるという方には、それは是非とも辞めるべきだと進言しておきたい。


 死とは傍らに携えておくものであって、己の内側に押し付けるものではないからだ。


 友よ、将来の不安という名の鞭で自らを叩き続けていると、いつか折れてしまうぞ。生きる糧を得るために死を持ち出すなど、滑稽ではないか。

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