死後の世界はあるか
自殺ではないが、音楽に関係する同好の士、親よりも年の離れた盟友が亡くなられ、昨夜はちょっとした宴の様相であった。厳かでじめじめとした葬儀は似合わない方だった。
今回は、あなたが感じているかもしれない不安について書く。
死んだ後のことについでだ。
人が死んだとき、私は反応に困る。
“正解”の反応は分かっているのだ。が、それでは嘘になってしまう。
「信じられません」―――嘘。人は必ず死ぬものだと十分に納得している。少し驚きはするが、事実を否認するほどのショックは受けない。
「悲しいです」―――嘘。悲しくなどない。生きる上で、当たり前のことが起こっただけのことだ。とうに想定済みのことに、わざわざ悲しんだりはしない。また、死は好悪両面ある。良い面に目を向ければ、悲しみなど感じない。
「寂しい」―――嘘。誰かと出会った瞬間、永遠の別離は、すでにあるものと思っている。死んだからといって、特別な寂しさを覚えることはない。いわば、常日頃から、薄い寂寥の中を生きている。
要するに、死に対して負の感情が、あったとしても少ししかないのだ。その点で、死を“悪い物”、“遠ざけるべきもの”とする大多数かつ適応的な価値観と、軽い衝突を起こしてしまう。
人が死んで悲しい、寂しい、という理路は分かる。その気持ちは慮りたいというところで、私は大抵「お悔やみ申し上げる」と言う。
これは便利な言葉だ。自分の気持ちはほとんど語らない。相手への尊重だけでできている。「私の気持ちはどうあれ、あなたは悲しんでおられるのだろう。ならば、その思いを尊重しよう」と、そういった使い方ができる。
そして、悲しんでいない私が、他者の死にどのような感想を持つかというと、「ほっとした」というのが適当だろう。
なにもない、なにも感じないというのは、最上の気楽である。永遠のノンレム睡眠。そういったものが、やがて自分にも訪れてくれると思うと、それはそれは安心するのだ。
一抹の不安は、やはり、死後にも世界はあるのかということか。そこでまた、現世と似たような苦しみに苛まれるのではないかという。
それは、「分からない」と申し上げるしかないのだが、私はごく楽観的に構えている。
死してしまえば、既に肉体は失われている。苦痛を感じる主体は身体、というか、その中の脳神経だとか、痛覚である。精神もまた、同じようなものだ。ということは、いわゆる“魂”が住まう死後の世界に、辛苦などないのではないか。
また今こうして考えている自分というのも、中枢神経が作り出した存在だ。となれば、魂だけとなった我々には、個人となどというものも存在しないかもしれない。
私見ではあるが、死後の世界とは、あったとしても、今の私たちとはまったく関係のない場所である。そう考えることにしている。
死など、しょせんは『いつか行く道』の話である。何も特別なことが起こるわけではないのだから、もう少し気楽に死んでいこうではないか、友よ。
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