スキゾイドという仮説

 人は誰しも、穴の空いたバケツを手にしている。


 そこに汲まれる水の名は、“幸福”と呼ばれる。


 バケツの穴は人それぞれに大きさが違い、針で穿たれた程度の物もあれば、景気よく汲んだそばから勢いよく流れ出してしまうほどの物もある。


 いずれにせよ、放っておけば、バケツを満たしていた幸福は何処へと消え失せる。得たものはなくなり、命は死んでいく。自然の摂理。幸福でありたいと、あり続けたいと願うのなら、絶えず汲み続けなければならない。そうしたければ、だが。


 私のバケツには、そもそも底が無い。


 容器というより、筒に近い。ふと、幸福を湛えた海の岸辺へ、戯れにそれを持っていくときはあれど、掬い取れる物など、何もない。一時の幸福感は、どうしようもない空虚さによって償却される。


 とはいえ、ほんの一瞬であっても、快楽や心地よさを得られる。満足である。


 喜びや楽しみと同じように、悲しみや、寂しさ、苦しさ、怒りといった負の感情も、長続きしない。空虚である。が、故に、気楽でもある。


 どうやら、私には、幸福になる才覚がまったく無いようだ。まこと、人として生まれてきた甲斐のない人間である。愉快だ。


 ここに、『私はスキゾイド人格である』という仮説を持ち込みたい。


 仮説、とはいえ、勝手に自己診断したのではない。専門の医師から「あなたのような性格はシゾイドと呼ばれて―――」という話を聞き、調べたものだ。しかし、たった一つの概念で自らのすべてを説明できるはずもない。自己を戒めるため、“仮説”とした。


 スキゾイドとは、概ねこういった人間の性格を指す。


・家族を含めて、親密な関係をもちたいとは思わない。あるいはそれを楽しく感じない。

・一貫して孤立した行動を好む。

・他人と性体験をもつことに対する興味が、もしあったとしても少ししかない。

・喜びを感じられるような活動が、もしあったとしても、少ししかない。

・第一度親族以外には、親しい友人、信頼できる友人がいない。

・賞賛にも批判に対しても無関心にみえる。

・情緒的な冷たさ、超然とした態度、あるいは平板な感情。


 これらが四つ以上当てはまり、かつ、社会生活に支障をきたし、それに本人が困っていれば、『スキゾイドパーソナリティ障害』となる。


 とはいえ、この診断を下される人はごく少数であろう。


 間違いなく社会生活に支障はきたすであろうが(事実、私などを客観的に観察すれば、天晴れな生活破綻者だ)、そのことに本人が困りや悩みを感じるかというと、甚だ疑問である。


 私も含めた彼らは、底の抜けたバケツの持ち主であることに痛痒を感じていない。


「そんなことでは、あなたは幸せにはなれませんよ」などと指摘を受けても「それがなにか?」と、まさに情緒的に冷たい返答をしてしまう。


 幸せを感じ、それを維持する機能が壊れているか、そもそも始めからほとんど存在しない。そんな類の、本当にどうしようもない人間が、医療や福祉の網になどかかるのだろうか。


 実際、私などは典型的で、いくつかの診療や投薬を薦められたが、すべて断ってしまった。


 確かに、他者との親密な関係を望まず、孤立し、大きな喜びも悲しみも感じない。青色吐息で学校生活を脱した後は賃金労働が二年以上続いた試しがなく、そもそも「生きたい」という欲求がほとんどないのでは、社会の成員にはなり得ない。よく分かる。


 しかし、それを“治療”したとして、何が変わるのか、と思う。自らの生活の何らかが“良くなる”というイメージがまったくできない。むしろ、今の放蕩だが気楽な生活を手放したくないという思いの方が強い。


 直したバケツにも、やはり穴は空いているのだ。自分の内から空虚さを消し去ったとして、日々、幸福が目減りしていくことを恐れ、必死に汲み続ける作業が始まるだけだ。そんな疲れることはしたくない。そんなことより痛みなき死を寄越せ。と、そのようにしか思えぬのだ。


 訥々といった体で、自分を語ってきたが、この先はまた章を替え、新たな内容の手紙をしたためることにしよう。


 内容は、「生きていたくない」という思いについてである。

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