『無限の奉仕者』としての私
私は、他者との対話で大切なのは“敬意”と“共感”であると考えている。
どのような意見であれ、思想であれ、そこに至るまでには喜怒哀楽や苦しみ、辛さを伴った物語があり、そこに想像をはせることができなければ、他者を理解することはできない。理解する必要などない、というのは確かにそうだが、生きていれば、いろいろある。そうせざるを得ない場面というのも、多くある。私は、出来るだけそうしてきた。
その中で、私の本質である空虚さは、共感され得なかった。
「命に価値を感じない」
「他者を(多くの人がそうするように)大切だと思えない」
「幸福になりたいと思わない」
だが、共感できなかった人の考えに、私は共感できた。
共感されなかった理由は、第一に、単純な言語能力と論理的思考力の低さ故に、上手い伝え方ができなかったこと。
そして、第二に「それで、何がしたいのか」という意思が無かった。はっきりと、「何もしたくない」と伝えることができなかったこと。こちらも、言語能力の無さと言えるだろう。
かように、私の方にも原因はある。なので、特定の他者や属性を恨む気持ちはない。お互いさま、である。
が、誰にも理解されなかった本来の私が、徹底的に「間違いだ」と否定され、叩き潰され、「こちらが正しいのだ」と無理やりな矯正にあったことは事実として踏まえておいて欲しいと思う。
「空虚なままでいたかったのだ」と、前項で書いたが、最早その願いは果たされない。
私の本質から分裂した、社会の成員たり得る人間の皮を中途半端に被ったかのような適応的な人格は、消し難い存在となるまで育ってしまった。
この私は、他者に対して『無限の奉仕』を行う。
自分の願望や欲求というものがなく、ひたすらに他人を喜ばせる道化人形としてのみ存在している。人の邪魔をしたり、悲しませることは許されない。
ただただ“大人”に言われるがまま、「生を喜べ」「人に迷惑をかけるな」という、半ば脅しにも似た言葉に従い、適応を繰り返した挙句にできた、醜悪な人格である。
強い言葉を使ったが、案じないで欲しい。“大人”にも、私を社会の成員として育てるべき事情があったことは承知しているし、誰に何を言われ、たとえ逆らうことができなかったとしても、その結果は己が引き受けねばならない。過剰な、筋の違う恨みは抱いていない。
分裂した人格とはいえ、それなりに楽しい思いもできた。「こんなものは本当の自分じゃない」などと悩んでいるわけでもない。そういう風にしか生きられなかった自分というものを観察し、その在り方を評したに過ぎない。
と、このエクスキューズが、既にして全方位的に他者に気を遣うしか脳のない『無限の奉仕者』ぶりを示している。
正直、何かの間違いであると自分でも思っていた。このような空虚さが、物心ついたときからあるなど、現生人類としてあり得るのか、と。
あった。それが、結論である。こういう人間は、生まれてくる。どうしようもなく。決して、特別でもなく。
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