適応できない私に投げつけられた「死ね」について
繰り返し続けた適応と発狂。
私の半生を表す言葉だ。そして今は、
そこに至るにも、数々の困難があった。
小・中・高校と、三学期の記憶がほとんどない。学んだ(はずの)ことが歯抜けになっていたり、身に覚えのないことが記録として残っている。
恐らくだが、当時の私は、一年のうちの九カ月を適応状態で過ごしたのち、残りの三カ月を軽い発狂状態(と書くと、やや語彙が軽いきらいがあるが、鬱病ではないと思われるので“発狂”とさせていただく)で過ごしていた。
前項に書いたが、私にとっての“適応”とは、他者の吹く笛に合わせて、自分とはまったく違う人格を無理やり演じることに等しい。
自身の本質たる“空虚さ”を覆い隠した『適応状態』を持たせられるのは九カ月が限度だった。それ以上は、「自分であって自分ではない“何か”が自分の振りをしている」状態に耐えられなかった。
私は、私のまま、空虚なままでいたかった。怠惰の
が、それは許されなかった。
到底受け入れられない適応の地獄を逃れ、虚しさの倦怠に沈み安らぐ私に、適応を迫る者たちは、こう言う。
「そんなことではいけない。生き甲斐を見つけよ。適応するのだ。死にたくはないだろう」と。
その質問に、否定で返すことは許されない。
「いいえ」
「人は死ぬものですから、死にたくないなどとは思いません」
という返答をしたが最後、人格否定含みの罵倒にも似た説教が待ち受けている。
さもなくば、「生きたいと思わないならば今すぐ死ね」との有り難いお言葉を頂戴する。―――彼らは、自分が何を言っているのか分かっていたのだろうか。自殺教唆という法律を知らないわけではあるまい。それ以前に、一人の人間を捕まえてそれを言ってしまうのか。実は、私以上に発狂していたのでは、と、今では訝しんでいる。
私が生きているのは、ただ死んでいないからだ。まだ、その運命が訪れていない。それだけのことだ。
この章の冒頭に書いたように、小説・音楽などと、創作や表現活動に手を出してはいても、実のところ、やりたいことなど何もない。ややもすれば今日にも死して朽ちてしまうありふれた命の、手慰みの暇潰しである。
分かっている。
私のものの感じ方や、考え方が良くないのだろう。
生を『喜ばしいもの』として感じられない人間は、断罪される。そのような経験が、より私をうんざりとさせたのはいうまでもない。
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