悩みも困りもない

ある種の人から怒られそうな話をする。


 七度目(八度目だったかもしれない)の就労に失敗し、当時の上司から「どう考えても何かおかしいからとりあえずお前は病院に行け」と勧められた。自分がおかしいのは私自身よく知っているので上司を責めないでやってほしい。


 そうして予約を取ったある精神科医に、こう言われた。


「狭義のうつ病ではありません。が、何か困ったことや悩んでいることがあるのなら、それに合わせて、何らかの薬を出したり、治療法を提案したりはできます」


 良い医師であった。そして、私はその提案を丁重に断った。はっきりとした病気じゃないのなら、健康ということだ。それでいいと思った。


 私は、精神疾患に罹った経験が無い。油断はできないが、これからも、無いのではないだろうか。


 なんとなれば、私はうつ病になるほど真剣に人生と向き合ってなどいない。


 意外に思われるかもしれないが、そうなのだ。我が身体に宿りし生命よ、死にたくば勝手に死ぬがよい。長い思索の果てに、その考えに達した。


 今日が最期の日だと言われたとしよう。よもやリンゴの苗など植えまいが、特別何かをしようとも思わない。いつものように、気分に任せて好きなようにやると思う。


 いうなれば、消化試合である。大勢どころか、とうに順位まで決している。そんな中で、些末でしかない日々の微かな変化だけが、いたずらに積み重なっている。


 今ここで死んでも、六十年後に死んでも変わらないのである。その確信が、私に真剣みを無くさせている。


 なんだかんだ鬱屈とした日々の方が多かったが、概ね、上手くやれていた方だと思われる。


 これ以上は付き合い切れない、というところだ。をさせてもらう。


 なので、困ってもいないし、悩んでもいない。だから、問診票の最初の項目に『あなたは今何に悩んでいますか』とあったとき「ああ、ここは私にとってお呼びではないのだろうな」と思った。“困り”が把握できなければ対処もできないし、解決など水平線の彼方だ。私は気分で無断欠勤し、機嫌で仕事をし、これでは迷惑にしかならんなと判断して辞めた。


 適応的ではないが、それはおよそ生まれついた瞬間からそうだ。「人生は虚しい」という認知は非適応的だとは分かる。だが結局、それが私の本質であり、そういう風にしか現実を捉えられない。よしんば一時的に適応したとして、それは私にとって、窮屈な箱に無理やり身体を入れる曲芸が如き所業でしかなく、やがて無理がたたって体調を崩してしまう。


 できっこないと分かっていることを無理やりやらされることほど虚しいことはない。ほとんど誰もが「お前にはできる」と言ってくれ、そこには私を地獄に突き落とそうなどという悪意は無かったが、何のことはない、先人の言った通り、善意で舗装された道で、虚無と地獄を行き来するシャトルランを続けていたのである。


 “普通”に生きることが叶わないと諦めきったときの安寧は、何にも代えがたかった。虚ろにしか安住できない私という存在に、悲しみを見出される方もいるやも知れぬが、そもそもがこの社会の成員たる素養の無かった人間が、ようやく掴み取った安息だと思えば、幾分か平和な気分にはならないだろうか。

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