分裂

 私は、私でいることが許されなかった。


「自分にも他人にも、生きることにも死ぬことにも興味が湧かない。学校、仕事、生活のすべてが無味乾燥で空虚すぎる。今すぐ辞めるか、死にたい」という、自らの芯にある考えを述べた瞬間、否定と非難が飛んでくる。


 親、教師、その他年長者に相談をしたところで、否定されるか、怒られるか。良くて笑われるかの三択だった。とにかく、地獄行きの線路の上をいいから走っていけと言われる 


 これを少年期によくあるモラトリアムだと判断していたのだろう。今は分かる。だから彼らに怒りはしないし、憎みもしない。受け入れてくれることを期待していた私が馬鹿であった。うむ、この書きぶりにはやや怒りを感じる。前言を少し撤回する。


 私の空虚さは一過性のモラトリアムではなく、本質だった。私はそういう類の人間として生まれた。


 私のように空虚な人間が、よくぞここまで生きてきたものだと思う。


 逆説的だが、無理やりにでも学校に通わされ、他者と合わせることや機嫌を取ることを強制されていたからこそできたのだと思う。


 そもそも、社会や学校といったものは、私のような規格外製品を、叩いてねて丸めてならして、といった風に、どうにかして今世にあらまほしき形に作り替えるのが役割なのだろう。


 そしてそれは、半ばまで成功しているはずだ。私の空虚さが、何らかの特別性を持っているとは思わない。むしろ普遍性こそ感じる。空虚な人間は、常に一定の割合で生産され続けていると見た方が自然だ。そのうちの何割かは、社会と折り合いを付けて上手くやっていける。私には不可能だった。それだけの話だ。


 閉じこもることが許されなかったので、不登校にも、ひきこもりもならなかった。無理やり、この社会の鋳型と自分を無理やり合わせてきた。しかし、二十歳を超えたところで、ついにパンクした。無理なものは無理なのだ。


 これを、大いなる時間稼ぎと見るか、無駄なスパルタと見るかは個人的にも判断が分かれるところだ。いずれにせよ、私は自分が思っていた通り、この社会の成員とはなれず、三十代にも入らぬ内から放蕩に明け暮れている。


「あなたの性格分析だと社交能力に高い数値が出てはいますが実際は主体性の無さや自分の空虚さから周りをキョロキョロと見まわしてその時々に合わせた振る舞いをしているに過ぎないんです」


 これは、とある心療内科医から得た診断の一つだ。まったく、一部の隙も無いほど、私という人間をよく表していると思う。


 何故に主体性が無いのかと問われれば、主体となるべき自分の素直な本音を否定され続けてきたからで、「自分ではないが、しかし他者からは肯定される自分」を演ずるには、周りの振る舞いに合わせて、鳴る笛の音に任せてフラフラと踊っているしかなかったのだ。


 私には、自分というものがない。


 完全に、私の本質である空虚な自分と、他人に求められる自分というものが分裂してしまっている。

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