自分の話

発見する自分自身について

 ライブ前は緊張する。


 いざ本番となってステージに上がれば緊張が無い。そこまで来れば、もう開き直ってやるしかないと思える。緊張は、そこに至る過程にある。 


 今、何に緊張しているのかといえば、自分というものを審判されることにだ。


 演奏や楽曲の完成度。ステージでの見栄え。観客の反応。集客。それらが、否応なしにつまびらかにされ「お前の程度はこれくらいだ」と明確に裁かれる。何によってか。何よりも自分自身によってだ。


 いかに心の中で自分を虚飾に纏わせ自賛しようと、また過剰に卑下しようと、結果がはっきりと出てしまっては反論のしようがない。身の程を思い知らされる。強烈な経験だ。まだ私などは緩い。これがメジャーのアリーナ公演であったり、またスポーツの試合などであれば、その結果―――勝ち/負けは、より重くのしかかる。そんな凄絶な緊張感とは無縁の、音楽という領域の末席の最後尾から伸びる毛細血管の先のような部分を微かに汚しているだけの私ですら、会社勤めの方がいくらか気楽だとすら思う。会社勤めすら続けられなかったのではあるが。


 同時に、こうしたジャッジメントに緊張する自分自身に、驚きも覚える。


 自分の価値などとうに諦め、放蕩の生活を続けていることに十分納得しているはずが、こうした諸所の場面で、まるで表現によって生計を成り立たせようと画策する夢追い人のような仕草をとってしまう。


 昔取った杵柄きねづかだと思う。


 私の自分史は、そのまま『適応の歴史』である。この現代社会に、どうしても合わない性質、気質、思想を、無理やりあらまほしき形に作り替えようとして、ことどとく失敗した。


 どうしても、人が、自分が生きていくに足る理由と理屈と納得を見つけることができなかった。やがて失われていく生命が、何らかを生産することに、虚しさ以外の感覚を身につけることができなかった。


 音楽は、その適応失敗の残骸の一つだ。人生に“生き甲斐”とやらを見出そうと、多くの物を試したが、ほとんどは捨て去られた。これと小説の執筆は未だに捨てていないのは、一人で完結させられる気安さがあったからだろう。死ぬまでの相方。暇潰しの玩具である。


 そうではあっても、向き合っている間は、当時の精神性に引き戻されてしまうのだな。つまり、他者から何らかの承認や肯定を欲している振りをしていた頃に。生きたいと思うことができないまま、何事も為せない、為そうとしない自分を否定し、無為な努力を強いていた頃に。死なないならせめて誰かの役に立って見せろと自分を攻撃していた頃に。


 そんな過去が、音楽と向き合うと顔を出す。


 自分という存在には価値が無い。その事実を額面通りに受け取って、勝手な絶望を育てていた頃の古傷が疼くのだ。価値が無いからなんだというのだ。と、開き直れなくなる。


 そうした自分を、発見することが、今もままある。


 この章は、私の話をしていく。


 今までも十分にしてきたではないかと思われるだろうが、あくまでも主観的な視点に留まるものだった。つまり、私という人間を、客観的に見ていこうというわけだ。貴方の自己分析の一助になれば幸いである。

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