生んだ者は悪くない/生まれてきたことは悪くない

 もう、労働だけではなく、なにやら責任のありそうなことを乞われるだけで身体が硬直し、大変な緊張状態に置かれるようになってしまった。


 何らかの義務を果たすために寿命を切り売りしている感覚は、小学生の頃からあった。もはや、それが耐えられなくなった。


 まるで踏み絵である。「生きたいのだろう。であれば、この苦行を果たせ、さもなくば死ね」という具合に。その先に待つのは、結局、死でしかないというのに。


 今世こんせの支配的な価値観に照らし合わせれば、私には生きている資格がない、と思われる。


 無論、そのようなものにくみする気はさらさらないので、手前勝手にやらせてもらっているが、どうにも生真面目な方が多いように感じる。


 私の人生は仕事ではない。≪仕事でしかなくなっていた≫と敬愛する藤原基央は歌ったが、人生に果たされるべきノルマがあったとして、それが未達であれば死ななければならぬとして、どうしてその声に、従わなければならないのだ。偉ぶった声の主よ、貴様は誰だ。神か。ならば私は仏教徒だ。それほど仏門に通じているわけではないが、唯一神は間に合っている。エデンで林檎でも齧っているが良い。


 私は私が生まれてきたことを肯定する。


 私は私がただ死に行くことに納得する。


 私は私が生きている虚無を全肯定する。


 私は私が生まれてきた事実を決して“悪い”と表現しない。他者に対しても、である。


 私は反出生はんしゅっしょうの宗旨を持つが、意に反して(準じて生まれてくる者などどこにもいないのだが)生まれてきた命を直ちに消し去るべし、などとは言わない。


 この章の冒頭で述べたように、どのようなものであれ、生まれてきた命にはすべからく感謝し、首を垂れ、崇め奉らねばならぬ。それは現世の新たな同胞に対し、必ず行うべき儀礼であり、礼儀である。


 生んだ者に対しても、私は否定しない。これもまた、私も含めた等しく愚かで虚しい動物である人間としての業である。


 決して彼らを非難はすまい。私が生まれたことなど、単なる動物として当たり前に行う生殖の結果である。どうでもいいことだ。


 だが、感謝はしない。むしろ、感謝をする筋合いは先方にある。


 私は興味がないが、自らの人生を幸福にする手段として、私を生み出すことを選んだのであろう。そして、首尾よく私は生まれてきてやったのだ。ついでに、もう一人生まれてきた。最高の人生。否、だと表現しても差し支えないだろう。


 父よ。母よ。存分に私が生まれてきてくれたことを感謝するが良い。死後も、あの世で感謝し続けるが良い。あなた方は幸いである。通夜と葬式のやり方程度は、勉強しておいてやろう。安心して逝くが良い。


 自身の出生に辛苦を感じ続ける友よ。あなたは何も悪くない。あなたを生んだ者も悪くない。いずれにせよ、命とは虚しいのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る