人生という山の中腹で、座り込む


 事ここに至って、“普通の人生”などを送りたいという欲求は、存在しない。


 天職を持ち、命を産み育てる一対の片割れとなり、天命を果たすという“正しい人生”への登山、山頂へのアタックは、努力の甲斐なく失敗に終わった。もうやる気はない。私には無理だ。これが結論である。


 そんな、人生という登山道の中腹で、何をするでもなく座りこけていると、このような声が聞こえてくる。


「こんなことに何の意味もない」


「こんな不毛なことをするために俺は生まれさせられたのか」


「こんな事をやる奴の気が知れない」


 登山を渋る、子供たちの声だ。その気持ちはよく分かる。そして、片一方からはこういった罵倒が飛んでくる。


「産んでくれた誰かに感謝の念も抱けないのか」


「誰もが我慢していることで音を上げるのは、ただの甘えだ」


「死にたいと言って死なないのは、お前が生きたいと思っているからだ。だから黙って歩け、でなければ今すぐに死ね」


 大人たちの説教だ。錯乱したように目を血走らせて罵倒する者もいる。何もそこまで言わなくてもと思うが、子供達も負けてはいない。


「自らの決断として人を生み出しておいて、感謝がないからと怒りだすのはどういう了見だ」


「誰もが我慢しなければ生きられない世界に人を引っ張り込んできて、言うに事を欠いて甘えとは何だ」


「勝手に産まれさせられて、何で痛い思いして自分から死ななければいけないんだ。分かった。死んでやるからまずはお前が手本を見せろ」


 聞くに堪えないやり取りだ。山登りなんかしたくない子供と、「それでもならぬ」に固執した大人。本当は誰も登りたいなどと思っていないことが透けて見える。


 生まれたくて生まれてきた人間など存在しない。


 生誕の果てにある死を前もって受け入れ、積極的に自殺したいなどという人間もいない。


 前項に書いたように、どこかで生誕という名の厄災と、死という名の不毛な救済を受け入れ、納得せねばならない。これは死を知る人類の宿業である。誰もが死ぬと分かって命を生み出し、その命がまた死に絶えるまでに同じようなことをする。


 私の目から見ると無間地獄の様相であるが、それを良いものだと思う人々がいるから続くのであろう。ならば必要以上に関知しない。


 産むがよい。そうする過程では、先述したような、生まれてきたことに対するどうしようもない悪罵を浴びることもあろう。そして、その言葉にかっとなって不毛な論争を繰り広げることもあろう。「せっかく産んでやったのになんだその言い様は」と思うときが来るだろう。そのとき、私の拙文を思い出して頂ければ幸いである。


 大人の罵声が私にも向けられてきた。我関せずを貫くのは娑婆では不可能だ。こういう時は、目を閉じ、口を閉じ、風に乗った花の匂いでも嗅ぎながら聞き流すのが吉だ。


 説教が終わったところで、私は子供たちにこう言うのだ。


「分かった。もうそこで座り込んでしまってもいい。いいかい、この山登りはね、実は頂上を目指さずとも、一定の時間が過ぎれば自動的に終わるんだ。


 だからね、頂上を目指し、歩く人のことを悪く言うのもこれで終わりだよ。代わりに、君のことを悪く言う者は私が叱ってあげるからね。分かったね」

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