生も死も、納得するしかない
映画『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の主人公は、誰もがやるほんの些細なミスから妻と子供を全員失ってしまう。その過去を吐露しながら、彼は「乗り越えられない」と涙ながらに語る。
私は、アカデミー賞をいくつか獲得した名作(主演男優賞と脚本賞)のこの部分を観て、この映画を希望の物語だと解釈した。
心を閉ざし、悲しみや絶望といったすべてを高い棚に押し込んで、決して他者に見せようとしないし、自分でも見ようとしなかった人間が、ようやく一つの曲がり角に行きついた、そういうシーンであったと思う。
絶望は終わらない。地獄の如き日常が変わるわけでもない。ただ、宇宙から見ればあまりにも儚く、動物として見れば不当と思うほどに長い人生の過程で、その苦しみが少しでも癒える可能性を提示した。それはまさしく、希望と呼んで差し支えない。
私であればどうなっただろうか。自分のやらかしで他者を死に至らしめた。これまで書いてきたようにもともと、あまり生きていたくない、というか、そもそも生まれてきたくなかったと素面で発言するタイプの人間である。そんな自分が、あろうことか人を殺してしまう、と。うむ。その場で舌を噛み切って自殺するやも知れない。しないかもしれない。
実際、ケイシー・アフレック演じる主人公も自殺を企て、失敗している。感情が迸るままに死のうとしたが、一度未遂に終わったあとは死ぬ気力すらなくなり、無為に生きている者の演技が神がかり的に上手かった。
いずれにせよ、やってしまったことは引き受けるほかないし、逆にやられてしまったことも、自分の中で消化し、納得するほかないのであろう。
そういうことは、いくつもある。
生まれてきたことも、そうだ。
私などは、まったく引き受けられても、乗り越えられてもいないが、納得はできるようになった。「生まれてきたのだから、生きるしかない」などとは決して思えないが、「生まれてきたのだから、死ぬしかない」という運命は受け入れている。
やや意地の悪い書きぶりになってしまうが「生きたい」という言葉に対して「それはいつまで」と訊きたくなる。
還暦まで生きられれば満足か。古希までか。はたまた
キリがない。キリの話ではないとしても、私はそう思ってしまう。
そういう人々は、果たして、いつまで自分の死を納得しないまま生きるつもりなのであろう。その人生の定めに対しての反骨心、闘争心といったものには共感し、敬意を抱く部分もあるにせよ、あくまで、遠巻きにして眺める類の生き様である。
私は諦めのいい性格だ。起こしてしまった/起こってしまった物事を「まぁ、しょうがないな」と思うまでの間隔が短い。そんな己ですら、生まれてきてしまった=いつかは死ななければならない、ということを納得するのに、大変な時間を要してしまった。
そう考えると、時間さえあれば、自殺は必要ないのではないだろうか。そうも思えてくる。
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