死にたくない人々への憐憫

 生誕は厄災である。人生は地獄である。命は宝石であり塵である。そのすべてを、砂浜に並ぶ貝殻のように死というさざ波がさらっていく。生とは虚無である。


 この娑婆で生きる限り「死にたくない」は通らない。


 どのような幸福も不幸も快も不快も、いずれは死に絶え、消えていく。その穏やかさが、私にはとても好ましいのだが、そうではない人々も―――否、むしろ私などが少数派である。認めねばならない。


 すべては無為に死んでいくのだという事実。それに反発したいが為に、“幸福”や“夢”“希望”などといった理屈をこしらえる。


 憐憫を覚える。私などに憐れまれたくないだろうが、ご容赦願いたい。身内にもいるのだ。そういう人間が。


 彼らは“無意味”に耐えられない。無価値を、悪しきものとして遠ざけようとする。


 また彼らは、やがて必ず失われていくものを大切に抱き締める。それが失われた段には「それも必然」と納得し、満足気な表情を浮かべてくれれば良いのだが、喪失感に打ちひしがれ、悲しみに暮れてしまうのだ。分かっていたことであろう、と、口を開きかけるが、詮無き事である。その手で触れ、目で見、言葉を交わし合うそのさなかに別れを済ませておくことができぬ人々なのだ。


 形あるものは死ぬか消え去る。それが分かっていながら、さも永遠にその手にあるように錯覚してしまう。日々『死を想う』という所作が足りず、今日の花が明日も咲いているものと、つい思いこんでしまう。


 私の考え方が刹那的に振れ過ぎているだろうか。無論、明日やひと月先の予定を立てないわけではない。だが、その過程に“死”は当然想定されるべきものとして存在している。そうして日々を暮らすことは、奇矯なことだろうか。


 死を夢見ているわけではない。指折り数えて待っているわけではない。ただ電車が終点につくように、人生を降りる日が来るという、ただそれだけのことだ。


 自分は死なないと思っているわけではないだろう。むしろ、そこまで思い切れるのであれば何も言うことはない。


 ただ、「死ぬのは今ではない。明日ではない」と、そう思っているのだとしたら、それは認識が誤っていると指摘せざるを得ない。


 あなたや、あなたの家族、友人、恋人、ペットが死ぬのは常に今であり、明日なのだ。


 繰り返す。


 死にたくない。失いたくない。は、通らない。今からでも構わないから、あなたが大切に思う人や物に、永遠の別れを想定しながら付き合うべきだ。


 悲しみながら喜ぶのだ。寂しさを携えて、出会うのだ。

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