反出生主義
反出生主義について
赤ん坊は、神様である。恐らくどこかで誰かが書いたか、言ったことを記憶の端から引いてきているだけだと思われるが、ここではとりあえず、私の言葉だと思っていただく。
正月に、親戚の集まりで弟夫婦が祖母の実家にやってきて、生後四ヶ月の甥も連れてきた。首がまだ据わっておらず、当然話せも歩けもしない。
すると、どうなるか。私含め、祖母、叔父叔母、従兄弟、そして無論のこと弟夫婦も含めたその場の全員が、彼の機嫌を中心に動き出すのである。
腹が減ったら泣く。いっぱいになったとしても眠くて泣く。寝かしつけようと抱っこをしても「その手つきは気に入らん」とばかりにまた泣く。流石に子育て経験者たちは心得たもので、彼の目まぐるしく変わる気性予報を的中させないまでも上手くやり過ごしていた。
そんな観察をする私も、甥の挙動にただおろおろとしているばかりではなかった。基本的に、子供や動物の相手をするのは得意な方である。これはスキゾイドの特徴でもあるらしい。人見知りな子がすぐ懐くわけでも、臆病な犬に吠えられないわけでもないが、概ね、彼ら彼女らとは友好な関係を築ける。
いろいろと試した結果、彼は鳴り物が好きで、ミドル-スローテンポで鳴らす鈴の音に心地よさを感じるということが分かった。速くても、遅くてもいけない。リズムパターンの変更にも機嫌を損ねる。そういう時は右頬を思い切り持ち上げて反対側の目尻を下げる変顔を披露すると良いということも分かった。その二刀を怠らなければケタケタと笑ってくれるが、同時に口端から母乳がごぽごぽと溢れ出るので、早急に拭いてやらねばならない。
かように、彼は神となっている。無関心でいることは許されず、また過干渉は怒りに触れる。ひとたび起きる癇癪はまさしく神罰であり、我々下々の大人たちは畏れながら食事を貢ぎ(そしてその出所は女性である。まさに生贄)、歌を謡い、踊り狂いながら「鎮まりたえー」とひたすらにひれ伏す仕儀を取る。
といったあれこれを、私は楽しんでいたわけだ。おおよそ子供は好きである。
好きであるからこそ、というのか、彼らが生み出されることに対して、釈然としない気持ちを持っている。
生誕の後にあっても、それ以前と同等の空虚さしか持ち合わせていない私はまだいいとして、“普通”の感覚を持ち育んだ子供たちの場合、軽く見積もっておよそ全員が、何らかの絶望をこの娑婆世界に抱くであろうことは想像に難くない。
その最たる例の一つが自殺志願者たちである。彼らは生誕がもたらした厄災としての生に苦しみ、死にたがっている。生まれたことによって生じ、押し付けられる様々な責任・義務・請求書に心身を摩耗させられ、耐え難きを耐え忍び難きを忍ぶような学校生活や家庭環境に置かれて、さらに国家から生産性を持てと重荷を増やされる。せいさんせい。“せい”が二つも出てきて非常に押しつけがましいし、徹底的に“精”を出させてやろうという加虐趣味も透けて見える。“生”に“賛成”せよとはまさしく思想統制である。唾棄すべき言葉だ。私は反対ではないにしろ、賛成には回らない。
私は、彼らの友である。故に、ヒトの生産には
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