虐待についての私見 生んだ者が育てる社会への疑義

 虐待は、自然界の動物にはよく見られる行動である。子育てのストレスが原因と思われるものも多くある。


 故に、同じく自然界の動物である人類が、自ら産んだ子を虐待するというのは、当たり前のことである。獣の習性。どれだけ本能が壊れた動物などと表現しようとも、動物であるという大前提は変わらない。だからこそ、日々の報道には親が子を虐待し、挙句の果てに殺してしまうという出来事が供給される。


 その度に、「このようなことは起こってはならない」という意見が提言され、議論が活性化し、何らかの法改正や、行政の改善が見られる。結構なことだ。が、踏み込みが浅いと言わざるを得ない。


 ことは、我々が動物の習性を手放さないことにある。つまり、『産んだ者が育てる』というあまねく哺乳類の中で運用されている仕組みである(そうではない例がいくらでもあることは承知している)。


 社会という枠組みが、動物の習性を適宜撤廃し、理性を育てることに主眼を置くのなら、ただ動物的な生殖の結果としてできた物の生育までも押し付けるのは、道理に合わない。産む能力は動物由来のものだが、育てる能力は非動物的な事柄なのだ。


 産んだ者に育てる能力があるというなら、それは別段何の問題もない。しかし、まずはそれを判断する何らかの枠組み、線引きが必要だ。


 まずは、高度に非動物的な能力―――社会性を育て上げることを要求する人間社会において、子育てとは誰もができることではない、ということを認めなければならない。


 そこに手を付けない限り、気の毒な命が無くなる日は来ない。


 そもそも、生まれてきたことが気の毒だというのに、である。


 苦痛に満ちた人生を歩まされる命を無くす方法は、もう一つある。


 産まないことだ。


 原因抹殺法。私は、こちらを支持する。


 前項にも書いたように、『生きなければならない命』は『死ななければならない命』と同様に存在しない。


 そう考えれば、『生まれなければならない命』もいなければ、『持続させねばならない種』というのもない。何のことはない。所詮は賢しい猿の一種が絶滅するだけではないか。すべては大自然の掌上しょうじょうである。わざわざ苦痛の中で産み育てることもない。辞めてしまえ。一番楽だ。


 それに納得できぬというのなら、せいぜい善い社会を創れ。私は知らん。人生が苦しみそのものであることは、とうに受け入れている。あとはできる限り気楽に死んでいくことだけだ。


 だから、私の後に続く命はない。ここで終わりだ。出生に連なる人生などという茶番は、私などが生まれてきたことで十分である。


 産むな、育てるな。次項からは、章を変えて、この辺りのことについて述べる。

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