自殺の否定を軽蔑する
人は死ぬものである。これまでも幾度か繰り返してきた文句ではあるが、何度書いたところで足りぬ。それだけ、人々の間で死は無遠慮に忌避されている。
生が肯定されるべきであることと同じように、自殺も肯定されるべきである。
どう生きたところで、いつかは死ぬのであるから、その“いつ”がどうであろうといいではないか。
自殺といえど、結局は周囲の環境と行政の配慮不足からくる強いられた死であるとする論陣もある。
しかし、強いられない死など無い。我々は否応なく老いていく。その先に待つのはまったく平等な死である。病も、怪我も、事故も、殺人も同様である。
程度の問題である。なるほど。了解した。しかし、それがつまり自殺を否定していいことにはならない。むしろ、自殺を完全に否定してしまう狭量さこそが、まさしく人を自殺に向かわせている。
私にとってはどの死もすべて平等に死でしかない。納得し、受け入れるしかないものである。そこに是非を問うことは、しない。
なまじ、『正しい死』などというものがあると思うから、自殺を過剰に忌避するのではないか。
あまねく「生きなければならない」という意識が、人を苛む。幸福はいつ何時も一時の至福でしかなく、それを得続けようと誰もが死に物狂いで生きている。何かが間違っていると、私は思う。
「幸福になりたい」などと思ったこともない人間の戯言として読み飛ばしてほしいのだが、彼らは、死に方を選ぼうとしているように見える。
彼らは、順番に固執する。
祖父祖母、父母、息子兄妹という家族があったとして、「祖父母から順番に死ぬべきだ」と思っている。
どんな考えであれ、思想は自由だ。が、決して果たされない理想である。死は突発的にやってくる。誰もが死を抱えて生まれてくる。順番を守るなど、所詮ほんの少し
そういった宗教観が、自殺の否定を叫ばせるのだろう。彼らの思いに共感しよう。同時に、決して相容れぬ者として線を引かせていただく。
この世には、生きなければならない命も、死ななければならない命も、ただの一つも存在しない。決して。私はこの陣から出るつもりはない。
何故なら、私がこうして宛名の無い手紙を書いているのは、まさに、有言無言の「お前は死ななければならない。しかし生きなければならない」という地獄としか表現できぬ二重拘束の中で生きてきた方に読まれたいからである。
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