他者からの不当な評価をどう処すか
変人だと言われる。
真面目な人間だと言われる。優しい人間だと言われる。頑固な人間だと言われる。意欲のある人間だと言われる。
心外である。すべて、不当な評価だ。
だが私は否定しない。なんとなれば、他者評価の軸は何を置いても『振る舞い』にあるからだ。
余命幾ばくもない母親の介護をしているという話は、折に触れてSNSなどでも書いている。
事実だ。が、前項に書いた通り、人間の死に対して特に感想は無い。肉親とて例外ではない。無論、自分自身もだ。
人は死ぬものである。そんな生誕の前から分かり切っていた事実を提示されたところで、何を思うこともない。知っていた。精々そんなところだ。
死にゆく者を煩わしくは思わない。生きている者を疎ましくは思わない。何故なら誰もが約束された死への旅程を歩む同胞だから。これは個人の信条。生者のマナーだと自らに戒めている。
肉親に対して、愛情はほとんど無いが、憎しみもない。むしろ非常に健康的な付き合い方だとすら思う。愛情は執着に変わる。憎しみは殺意に変わる。
以上が、私の内心であり、本質だ。
堂々と公衆に開陳してしまっているが、たとえ、これらが他者に見透かされていたとして、何の
実際の振る舞いとして、足しげく見舞いにも通い、半身不随の身体を散歩に連れ出し、請われれば食事を介助し、おむつを替えてきたからである。
私への評価は、それらの振る舞いによって処される。悪い点はつけられない。内心への不審など、振る舞いの前では価値を無くす。私は、私が正しいと思う信条に沿って、正しい振る舞いをし続けている。故に、「命になど興味はない」と大手を振って書き飛ばせるのである。
これらの文章を読んで、あるいは、私に対して露悪趣味や偽悪を見出す方もいるかもしれない。
「そう言ってはいても、心の底では他者を大切に思う人格が備わっているはずだ」と。
なるほど。承知した。否定はしない。
内心への評価など、各々で好き勝手にやってくだされば良い。私はそんなものに、心底から興味がない。
ただ一つだけ。私は正直に自分の心の内を書いていることだけは了解して欲しい。そこには偽悪も露悪も利他も偽善も無い。
内心への不当な評価もまた、散々なものだった。
「生きていくことに、何の意味も持てません」
「死んでいくことに、何の興味も持てません」
「いつか死ぬのに生まれてきたという事実を前にすると、ただただ虚しいです」
これらの心情吐露に向けられた、幾多の否定・批判・非難の声。
命を前向きに捉えられなければ生きていてはいけないのか。
人生を無意味と断じる者は
生活に虚しさを覚えたら病院に行かねばならんか。
馬鹿馬鹿しい。
すべて不当な評価だ。私は決して受け入れない。受け入れないが、否定はしない。線を引かせてもらう。私の内心に立ち入るなという境界線だ。
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