生を、どう処すか。

命とは、宝石であると同時に、塵である。

 生まれたからには、人類は皆、約束された死への旅程を歩む同胞である。その点で、私は人間に対し、深い愛情を持っているといえるだろう。


 ここでは、命というものについての私見を書く。


 私は、人命というものを「等しく宝石である」と、捉えている。


 それは「等しく塵である」と、同義である。


 一つ、我が家の近所で起こったとある事故について語ろう。


 とはいえ、何のことはない。狭い道の交差点で、中型自動車と自転車が交錯し、自転車の女性が吹き飛ばされ地面に強く身体を打ち、ぴくりとも動かなくなっただけだ。その後の顛末は知らないが、亡くなったものと思われる。


 さて、この話を聞いてなお、生まれてきたことに意味はあるといえるだろうか。


 私は言えない。断じて、言えない。


 もし、事前にそれを知っていたとして、


「これから娑婆に生まれ行くあなたは、○○歳のときに制限速度三〇km/hの道を六〇Km/hで走った挙句、交差点で一時停車はおろか減速もしないたドライバーに轢かれて息絶えます。それではいってらっしゃい」


 と、言われて、それでも生まれたいと思うだろうか。


 私は御免である。断固、拒否する。そんな選択肢はない。また、最期がどうなるかなど、誰も知る由もない。


 全身の力が抜けていく。無常と無情に精神が弛緩する。


 そんなものなのだ。人生など。


 ついうっかり張り切り過ぎた精子が、卵子に届いてしまうように、ついうっかりスピードを出し過ぎた車が、見通しの悪い角で衝突してきたりするのだ。


 そのように、何の意味もなく生まれてきて、何の意味もなく死んでいくのが、我々人間の本質である。


 命とは、宝石であると同時に塵なのだ。


 生まれてきたことを、ことさらにはやし立てる必要はない。


 死にゆくことを、ことさらに悲観して見せる必要もない。


 すべては、この宇宙で生まれた、塵の一つである命というものの条理である。


 やがて死に絶える者が、いつか死に絶える者を生み出した。それを茶番とは呼ぶまい。しかし神秘とも呼ばない。


 では、何か。答えよう。


 単なる無意味だ。無意味に罪は無い。無意味は罰ではない。無意味は気楽である。私もあなたも、無意味な命の一粒らしく、気楽にしておればいい。

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