活き活き生きることの何が良い

 食欲の春である。嘘である。私の食欲が季節によって減退することはない。花粉症もない。夏バテは経験がない。秋の冷え込みに鼻をすすることはあっても、冬の低気圧に心身をやられてしまうことはない。季節感のない身体をしている。


 代わりに、精神の何割かには常に抑うつが常駐している。


 自分にも他人にも期待はない。幸福で意味ありげな人生に価値は感じない。ある意味、安定した精神的低空飛行を続けられているので、治す気もない。


 低空は低空。ちょっとした地形の変化にも耐えきれずあっさり墜落する。しかし、大怪我はしない。しばらく休めばまた出発する。ずっとそのようにしてきた。


 自殺志願者のうち、実行した友との違いは、ここにあるのだろう。


 人生に期待がない。故に、失望がない。幸福なぞ大したものではない。同じように、不幸も死への途上にある些事さじ。真面目に取り合うかどうかは、趣味の領域である。


 理想と現実の差。あるべき自分像と実際の自分との差。それがない。成るようにしかならず、在るようにしかいられない。納得している。


 この国で“普通”と呼ばれる諸所のわだちを辿り損ない、路線から脱輪したときも、「そういうものだ」という諦めの気持ちがあらかじめあったので、大変な辛苦ではあっても死ななかったのだろうと思う。


「こんなはずではなかった」が、人を殺す。


 こんな自分は嫌だ。だけど理想とする自分にはどうやってもなれない。それが辛い。苦しい。もう、死ぬしかない。


 届かぬ理想に酩酊めいていし、夢想に彷徨ほうこうした果ての自棄やけ。私には、そう映る。


「人はみな、生きたいと思って生きている」と、いう予断が、人を殺す。


 を勇気ある行動とは呼ばない。しかし、自殺を巡る言説ではしばしば、「死ぬ勇気」が語られる。それを現実の困難に立ち向かう原動力にせよとの、無遠慮な勅命ちょくめいが下る。愚かなことに、人は時に、そんな言説に妥当性を見出してしまう。


 何故そのように目が曇るのか。


 本来は多様な価値観の一つでしかないはずの『意欲を持って活き活き生きる』という考え方が、強く内面化されてしまっているからだ。


 活き活きと生きる。結構なことだ。だがそれは、嫌々生きることを否定するために扱ってはいけない哲学だ。


 他者の価値観に共感を寄せられない意見が、人を殺す。


 泣き喚きながら、嫌々生まれさせれた。

 嫌々勉強した。

 嫌々受験した。

 嫌々就職した。

 嫌々働いた。

 嫌々老いた。

 嫌々生きた。


 そして、喜んで死を受け入れた。これは“”である。この逆もまた“是”であるように。


 冒頭、季節がないと書いたが、春は少し苦手だ。


 気温が上がり、新年度が始まり、花が萌え、動物が活発になる。


 人も活き活きとし出す。感情が豊かになる。笑い声がよく聞こえる。浮き浮きとした気分が伝わってくる。同時に、怒声もよく聞こえる。泣き声も増える。


 だから、春はあまり外に出たくない。もう少しだけ鬱々とした世界の方が、私好みだからだ。あなたは、どうだろうか。

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