身体の反応こそがすべて

 身体の意に沿わねば、人は病む。そんな基本的な話をする。


 私とて最初は多数与党な生き方を模索していた。仕事をし、金を稼ぐ。詳細はまえがきとしてしたためたため、繰り返さない。


 いざ仕事を辞めるとき「何がそんなに嫌なのだ」と訊かれた。


「どうせ間もなく死ぬのに、頑張ったり努力したりしなければならないと設定されている“人生”というものが嫌なのだ」と答えたわけだが、賛意は得られなかった。得たとしてもどうしようもないことだが。


 今では、話はそれよりもずっと簡単だったと思っている。


 身体が、労働を拒否していたのだ。


 仕事場に向かいながら、足先から順に、浅瀬を歩くような鈍く重い感触が立ちのぼってくる。次第に尋常ではない緊張で、全身が強張っていく。それでも「行かねば」の一心で工場の作業場に辿り着いた。休憩を含めて八時間の労働、繁忙期には残業。しかし相変わらず身体は緊張に支配されている。ミスを連発する。叱責。さらなる気分の落ち込み。身体は、鋼鉄の鎧を着させられたようだった。悪循環。


 そして、くだんの日を迎える。


 思えば、当然の結果だ。


 いくら頭で考えていても熱が40度も出ていたら起きられないし、痛む足で走り続けていたらいずれ肉離れを起こすか骨折する。よしんば無理を通せたとして、できることはたかが知れているし、より深刻な事態を引き起こすに決まっている。 


 かように、人間の主となるのは脳でなく、身体だ。身体の実際的な動き・反応がすべてである。


 毎朝低血圧を押し殺して遅刻しない時間に起きたとして、勉強・運動・バイトをやるのに「それが将来の幸せに繋がるのだ」という餌をぶら下げたとして、「そんなもんいらんから寝かせてくれ」と思う。実際、身体もそのようにしか動かぬのだ。


 もう一つ、個人的な例を出したい。


 先日、とあるライブハウスで歌わせて貰った。かなりやることが詰まっていた一週間の週末だった。疲れている。そう思っていた。


 しかし、実際にリハーサルを経て、本番のステージに入ってみると、とても良い伸びのある声が出た。どうやら疲れは適度なもので、そのおかげで余計な力が抜けたらしい。


 脳が考えていた疲れと、実際に身体を動かした時の結果には、明確な差がある。やってみなければ分からない。ということは、やってみて駄目であったら、即刻止めねばならないということだ。身体の拒否反応を脳は御せない。脳は身体を動かすための臓器であって、身体を支配しているわけではない。


 無論、極度の緊張状態にも脳は無力だ。


 私は、仕事を続けてはいけなかった。できなかった。地獄としか思えない苦しみが待っていた。死にたかった。死ななかった。最悪だ。身体の反応に従わなかった報いだ。


 それ以後、同じようなことを繰り返した。ようやく、今になって身体の反応こそがすべてだという結論に至れた。


 それに従ってさえいれば、苦しみは九割方軽減される。残りの一割は、何のことはない。死に向かうことを厳命された身体の反応である。

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