気楽論

適当的幸福論

 始めに一つ、少々恥ずかしい話をしたいと思う。


 中学一年生の三月、酷いいじめを受けた。あまりのことに怒り狂って泣き乱して、授業も部活も放り出して自主早退を決め込んだ。もう二度と学校など行くものか、忘れるものかと思い、家に帰り、くさくさとした暇潰しにゲームなどやっていた。


 すると、何ということだろう。その日まですっかり詰まっていた攻略が、さくさくと進んでいくではないか。


 そしてついに、最終ボスまで倒してしまった。クリアである。


 やった。


 天にも昇る喜びであった。


 結果、その日に学校で起こったことや、怒ったことなどまったく忘れ去り、大変に良い気分で眠りに就いた。翌朝もうきうきとした気持ちは残り、何のこともなく、へらへらと登校していった。


 最初は、自分で自分が嫌になった。人生に真剣さが無い。その時々の気分や機嫌に左右され過ぎである、と。


 今は違う。ものの本によると、人という生き物は、どのような激しい怒りも六秒以上保持し続けておくことができないそうだ。


 十三歳の私の経験は、見事なアンガーマネジメントであったといえなくもない。


 かように人生とは、適当なものであると思う。


 禍福かふくあざなえる縄の如しという言葉があるように、ただ、目の前にやってくる出来事をやってきたままに受け取っていくと、幸福感、不幸感というのは簡単に裏返る。


 人間万事塞翁が馬。


 どう生きても人は必ず不幸になるし、あまりにも簡単かつ適当に、幸福になってしまう。隣の芝生は青く見えるが、青いだけである。黄金色に輝いていたり、虹色に鮮やかだったりもしない。私の、どう見ても茶色い庭も「手入れの手間が無くていい」と、思われているやも知れぬ。


 私自身も、そう思っている。気楽。そう、気楽だ。


 人は、幸せになれるものだと思っている。これは間違いない。ただし、それは続かない。絶対にいつか不幸はやってくる。何故なら、生老病死しょうろうびょうしは、人間という種の定めであるからだ。


 良き出会いもあろう。愛おしい別れもあろう。心地よい疲労と糧となる困難を乗り越え、慈しむべき命が生まれてくるのだろう。それを、幸福と呼ぶのだろう。


 そして、それらはすべて失われる。例外は無い。人が人であるが故の必然。


 そこに私は欺瞞を見る。


 そもそもからして、幸せに“なる”という言葉を使っているということは、今現在は幸せではないということではないか。能動的に、幸せになるのだという態度を取っていないと、いずれは不幸になっていってしまうのか。なるのだろう。人間は、ただ生きているだけでは幸せにはなれぬのだ。


 そのようなものを、万人共通の生きる目的にしてしまって良いのだろうか。苦労して幸せになどなりたくはない。何もせず、放蕩のままに、生きて、老いて、病んで、死んでいきたいという宗旨は、許されないのか。そのようなことは、ないだろう。


 私の個人的で適当な幸福論は、こう結論付けることとする。


 幸福とは、趣味である。


 なりたいものだけが、その道を邁進まいしんすればよい。いずれにせよ、良いことは続かず、悪いことは絶え間なくやってくる。キリがない。


 私は、気楽であればよい。気楽論。特に目新しい思想ではない。が、幸せになれと迫る声と袂を分かつためには、必要なものであると確信する。

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