何故、孤立すると人は死ぬのか。

 孤独に、良いも悪いもない。


 しかし、孤立は人を毒する。


 無人島に取り残されたわけでもない。独房に収監されたわけでもない。にもかかわらず、他者との関係が絶ち切れ、孤立の果てに死を選ぶ者がいる。


 孤立がもたらすものとして最も大きいのは、羞恥心だ。羞恥心は、自分を出来損ないだと思わせる。


 もしくは、に入れないことを恥じてしまうと、ただの孤独であったものが、孤立という毒に変質する。


 つまり、問題は、孤立ではなく恥の意識である。


 これを経験した方は少なくないと思われるが、私も、学校のクラスで孤立し、それが大層恥ずかしかった記憶がある。


 保育園に入った初日に「デブ」とバカにされたこと。昼寝の時間、何の脈絡もなくある保育士に頭を叩かれたこと。初めて見たコミュニティに受け入れてもらえなかったこと。理由もなく大人から暴力を振るわれたこと。


 小学生のころ。十一歳の時だったとおもう。ただそこにいるだけで周りの人間から邪険にされること。理由は今もって全く分からない。


 中学生。特に部活動の場面だ。運動神経が悪いなりにやってきたが、やがて、練習に参加させてもらえなかったり、コツコツと先輩から小突かれたり、これ以上はまた別の機会に。


 今でこそ、まるで通勤車両の乗り合わせのように、たった四十人の他人(決して友達などではない)が寄り集まった空間に馴染めなかっただけのことに、何を怯えていたのかと考えることができる。


 が、誰に言われたのかは知らないが、私たちは群れから追い出されたら死ぬと思ってしまうところがある。


 恐らく、我々人類には、群れの動物としての意識が抜きがたく残っているのであろう。人とは、個であると同時に種なのだ。個人としてどれほど孤立=恥をねつけても、種としての脳が、孤立を恐れてしまう。


 これは認め、受け入れるしかあるまい。


 人種。宗教。性別。性格。性癖。血液型。学級。どのような手法、手段であれ、人間を一つの枠組みに囲おうとすれば、必然的に、その枠から外れる者が出てくる。どうしたって孤立は生まれる。それを恥と思うことも。


 その恥は、怒りも連れてくる。


「何も悪いことをしていない自分がこれほどの仕打ちをされるということはつまり、周囲の人間(社会)とこの世界は、自分に「死ね」と言っている。「死んで欲しい」と思っている」


 正当な怒りだ。だが、不毛だ。孤立を恥じる意識からは、自由になれていない。むしろ、より頑なに、より孤立を深めることになる。実際、なった。


 こんな卑屈で捻くれ曲がった感情を捩じ切れるほど拗らせてしまうくらいならば、諦めてしまった方が良い。


 これは、今も世界中で引かれているくじなのだ。もしくは、出目。振られたさいが、たまたま、悪い目を出す。望むと望まざるとにかかわらず、引き受けなければならないもの。生誕がもたらした災厄の一つ。


 運が悪かった。あまりにも絶望的な結論ではあるが、同時に、こう考えることもできる。


 我々は、間違っていたわけではない。


 ただ孤立したことを以て、自らを「人間の歩留まり」「欠陥品」「エラー」などと思う必要は、やはりどこにもなかったのだ。


 家族がいる。恋人がいる。友が数多くいる。結構。それは良いことだ。だが、孤立することもまた、人という種として正しい在り方だったのだ。


 友よ。孤独な友よ。孤立を恥じつつも忍び続ける善良な友よ。少なくとも、私はあなたを誇りに思う。

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