何故、金が無いと人は死ぬのか。

 最初に、結論から申し上げると、金が無いからといって人は死なない。


 人は貨幣を喰って生きているわけではない。空っぽになった預貯金口座に喰われるわけでもない。


「金がなくなってしまう。喰っていけない。死ななければならない」


 これは、おかしなものの考え方をしてしまっている。


 “喰っていく”ために必要なのは金ではない。水と食物にありつく手段である。さらに書くと、金を得る手段も賃金労働だけではない。


 少なくとも、この国には食物がある。幸運なことに、社会保障がある。全員に行き渡るほどあるだろうか。などと考えるのは、まず自分の腹を満たしてからである。黙って食え。金が無くとも。働かざる者飢えるべからず。


 繰り返す。


 金が無いことと死が結びつくのは、視野狭窄しやきょうさくに陥っている。非論理的な思考である。論理的であることがすなわち正しいということでないとしても、要らぬ心配はしない方が良い。金がなくなったことで沸き起こる希死念慮というのは、そういった類の不安である。


 気持ちは分かる。


 私も、貯金と寿命とを密接に結びつけていた悪しき時代があった。どうかしていたと思う。


 今から数年前、何度目か分からない就労失敗のあと、その考えに憑りつかれた。たまらず、神経内科の門を叩いた。


「もう働くことができない。死ぬしかない」と、いったようなことをA医師に申し上げた。


 すると、彼はきょとんとした顔をしてこう言った。


「どういう意味なのか、よく分かりません。別に働けなくなったからといって、死ぬ必要はないではありませんか。


 働けなくてお金が無くなったのなら、役所に行って生活保護でも何でも貰いに行けばいい話でしょう。それでなくても、通院を続けるなら自立支援も出せますし。寛解すればまた別の道も開けますよ。


 とにかく、働けないから死ぬというのは、おかしな話ではないですか」


 なるほど。御意。その通りである。私の不安は消えた。その簡単な理路に気付けないほど、脳が誤作動を起こし、妙な思考回路を形成していた。なお、通院はその日に辞めた。恐らくA氏の二十年の心療内科診療史上、最速の寛解であったと思う。


 この項のまとめとして、一つ、金を無くす=死という歪な思考回路では恐怖でしかない私の体験談を記す。


 先月、二〇一九年三月初頭、私の預金残高は、堂々の二,二〇七七円であった。


 しかし、私に不安も、死への恐怖も無かった。そのようなものは、覚える必要が無いからである。


 友よ。どうか聞いて欲しい。所持金の多寡は、自殺の理由足り得ない。


 だから友よ。貧しき友よ。今度一緒に、役所にでも行こうじゃないか。

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