生誕の暴力をどう処すか

 望んで生まれた者など、この世に一人も存在しない。


 生誕とは、全人類が受ける最初の暴行である。我々は誰しもが生誕という暴力に晒され、人生という地獄を生きることを押し付けられる。


 それを緩和するために、人類は幸福という概念を産み落とした。夢、希望、娯楽、中身はそれぞれであるが、それらを追及することが幸福であり、人生の意義、目的であるとされた。


 無論、幻想である。が、あなどがたいものでもあって、幸福には、やがて死ぬという事実を、一時忘却できる効果がある。それによって、我々はここまで数を増やした。お前も幸福になれと、そうやって人は人を生み出すのである。


 当然、何事にも例外はあり、幸福という集団幻想に、馴染まない人間が必ず生まれてくる。彼らは生誕の暴力性を欺瞞ぎまんできない。また、幸福など感じるいとまもないほど暴力に満ち満ちている生を送らざるを得ない人々もいる。彼らもまた、生まれてきてしまったことに絶望している。


 くどいようだが、決して人生は幸せになるためにあるのではない。楽しみの一つでもなければ我々は人生の無意味性にたちまち発狂して集団自殺を始めてしまうから、社会の中に幸福というものが生まれたのだ。幸福追求は音楽と同じくただの趣味嗜好。やりたい人間がやればよい類の話でしかない。


 人生とはただ人生である。痛みと喜びと苦しみと楽しみの果てにある死を迎えるだけの無為な旅である。

 

 ここからが本題だ。


 死の痛みと同じく、生誕もまた、拒否できないものである。悔しく、無念なことではあるが、噛み潰した苦虫を咀嚼そしゃくし飲み込むが如く、納得せねばならない。どうすればよいのか、というのが、本筋である。


 私がやったのは、諦めだ。明らめ、と書いてもいい。生まれたという事実を引き受けられない弱さも含めて、何もかもを「仕方なかった」と思うのである。


 事実として、この世は仕方のないものに溢れている。


 何も無い自分を受け入れてしまえば、あとは死ぬだけ。気は楽だ。何も生み出さないが、何も残さない。あとを濁さず、娑婆を去るのみ。


 生まれた瞬間から、老後は始まっている。人というのは、広く捉えれば哺乳類というものは、せいぜいが果たせるわざなぞ、立派な自分の墓石を作ることくらいなのかもしれぬ。


 あとは骨となり、灰となる。そのすべてを諦め、明らめる。


 生まれてしまった事実を、受け入れるのではなく、受け流す。


 生誕の暴力に抗す手段は、これくらいしか思いつかない。


 酷い結論になったと思うであろうか。


 だが、友よ。私には、これが一段と心地よい心持になれる処し方なのだ。

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