微かな怒り
治療が必要なのは個人か、社会か
前書きと、『何故、私は死にたかったのか』に書いたように、私とて、普通を希求した時期もあった。
勤労の苦しみをなんとかしようと、貯金による早期退職を決めたその日に「いや、今この日々がただひたすらに辛いのだ」という思いが塊のようにのしかかり、身体が一歩も動かなくなった。翌日、仕事を辞めた。
以来、私は今日まで一般的な社会生活を送れないでいる。微妙な言い回しだ。根無し草のその日ぐらし、と書いた方が適切だろう。放蕩であることに不満は無い。普通を求める心性など、とうに失われた。
その過程で、二回、心療内科に通った。そのときのやり取りは既に述べたので繰り返さない。
それ以外の話をする。
そのときの率直な感想はこれである。
「何も困っていない私がなぜ薬など飲まねばならんのだ馬鹿馬鹿しい」
眠れないのであれば眠らずにおれば良い。そのうち、朝方か、夕方には眠くなる。寝なければいけない時間が決まっているから眠れないという事態に陥る。遅刻、欠席、知ったことか。寝るも寝ないも身体の反応だ。それがすべてだ。
そもそもなぜ心療内科に通っていたのかという、そもそものところが判然としていなかった私は、この思いが内から湧いたことでようやく合点がいった。
悩んでいたのではない。悩まされていたのだ。困ってなどいない。困らされてきたのだ。社会によって。
このとき、すべてを放り出す決意ができた。
私に治療は必要ない。
セロトニンだかテストステロンだか知らないが、そんなものを増やしたところで、人生というものを約束された死への旅程であるとしか感じていない自分には何の効果もない。
「狭義での鬱病や各種発達障害は見受けられなかった」
「あなたの気持ち次第では、治療可能性もある」
といった言葉に医師としての誠実さを感じたので、私は彼の診断を全面的に受け入れている。
そこで決めたのだ。
私には、治療は必要はない。
私は困っていない。
詳細に書けば、私の“困り”は私の内側からもたらされるものではない。外側。つまり周囲の人間関係と社会環境にある。
私がどれほど多くの薬を飲んでも、どれほど強力な認知行動療法を受けても、私の“困り”は解消されない。何故なら、私にとって悩ましいのは常に人間が人間であることであり、また、その人間が創造した社会が社会のままであるからだ。
この章では、私が抱える憤りに関して述べる。気持ちのいい読み味にはならないことを、最初にお断りしておく。
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