殺人を軽蔑する

 動物が、同種の動物を殺す行為は、自然界で普通に見られる。縄張り争いや、繁殖相手を巡るやりとりだけではなく、単に面白半分の快楽目的で殺してしまう猿もいる。


 人間もまた、広義では自然界の住人である。快楽殺人鬼、シリアルキラーが存在することに、何の不思議もない。


 だが、理解に苦しむ行動でもある。


 当然だが、人類は人類である以上、その身に死を抱えて生きる動物である。例外は無い。どんな人間もいつかは死ぬのである。


 それを殺して、一体どうなるというのだろう。


 どうせ一世紀と持たず朽ち果てていく者へ、何を力み込んで死を与えているのだろう。


 屠殺のように腹が満ちるわけでもなし。自殺のように今そこにある苦痛がきえるわけでもなし。ただ放っておけば勝手に死ぬものを、わざわざ労して殺す。まったく不毛な行為である。やる者の気が知れない。


 理解に苦しむ。馬鹿らしい。いっそ軽蔑の念すら抱く。


 しかしながら、多くの人はこの『殺人は軽蔑されるもの』という結論に頷きはしても、思考の過程には首をかしげる。


「殺意そのものを否定してしまうのは如何なものか」と、こう来るのである。大切な者を殺された人々の復讐心すら切って捨ててよいのだろうか。


 疑問は尤もなので、回答しよう。


 私にはそれが、それすらもが鬱陶しいのだ。


 大切だと見定めた相手が理不尽な悪意と運命に弄ばれて殺されたら、その行為を憤怒と共に憎み、時としてどす黒い殺意に身を焦がさんばかりに懊悩おうのうせねばならぬという、そういった反応と振る舞いをせねばならないという設定がもうすでに疎ましいのである。


 人と関係するにあたって、奪う、奪われるという設定を持ち込みたくないのだ。憎しみに変わるほどの愛情など、持ちたくないのだ。そして、「持ちたくないのだ」と思ってしまえば持たないでいられる程度に、私は大した愛情を持っていないのである。


 死別した日の通夜の準備までに「仕方なし」と諦めがつくくらいの適当な愛情で、生きていたいのである。

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