死の痛みをどう処すか

 痛みとは、必要な感覚である。足が折れたことにすら気付かずに歩き続ければ、重篤な障害が残る。高熱による身体の痛みを無視すれば、のたうち回り、もがき苦しんだ挙句の死に至る。


 とはいえ、できれば痛みは回避したい。


 人が死を恐れるのは、まずもって今わの際には痛みが伴うからであろう。文字通り、死ぬほどの痛みである。想像するだけで怖気がたつ。


 他方、死そのものについての恐怖は、少なくとも私には無い。


 ある日のことである。


 誤って転倒し、後頭部を強打した。


 目の前が真っ暗になり、吐き気と痛みが全身を支配した。起き上がることができない。目を開いているはずなのに、何も見えない。


 死ぬのか。そう思った。実際、同じように死んでいった者の話を聞いたことがある。


 思考は一瞬、混乱に陥った。が、次の瞬間には平静を取り戻した。


 仕方がない。


 死ぬ時というのは、得てしてこのようなものだ。私は潔く諦めた。


 無論、私は2019年現在に未だ生きている。死ぬほどの怪我ではなかった。しかし、常日頃から頭で考えていた通りに、死を前にじたばたとしなかった体験は、分かちがたく記憶に刻みついている。


 死の痛みはできる限り回避したいものであると書いた。これは確かなことである。


 が、考えても詮無きこと、ともいえる。安楽死がその字義そのものに安らかで楽なものであるかは、死んでみないと分からない。


 ある日、突如として受け身も取れず転倒することがあるように、我々は皆、予想だしない痛みと苦しみを引き受けざるを得ない日々を常としている。それらの先に、死がある。


 であれば、最早、死の痛みに過剰な恐れを抱くことはないのではないだろうか。いずれにせよ、痛みとは避けがたくやってくるのである。望まざることであろうが、享受するよりほかないのである。


 死にたいという願いは果たせても、“楽に”はならない。これは肝に銘じておくべき事実だ。


 人間は産まれ方を選べなければ、生き方も、死に方も、思ったようにはいかない。


 死は、どんな形であれ暴力である。そして、“生誕”もまた、そうだ。

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