空から碧く光る宝石を持った女の子が降って来たのだが、オレはこの後、「バルス!」と叫ぶのだろうか?

靖之

第1話

 雨が激しく身体を打っている。

 頭の先から足の指の先までずぶ濡れで、水を吸った衣服が体に重くへばりつく。

 いつも薄暗いバイト先からの帰り道は、頼みの綱である街灯の明かりを雨がかき消しているためにほとんど真っ暗だった。

「やっぱり車で送ってもらえば良かった」

 今日、何回目になるのか分からない後悔をする。



 本当はこの時間、外は嵐であっても安心な家の中で優雅で自由な時間を満喫しているはずだった。

 親戚の家で軽いトラブルがあったとかで、両親と弟は土曜日の朝早くから車で隣の県まで出かけて行った。試験があるから勉強をしなければならないと嘘をついて家に残ったオレは、降ってわいた明日の昼までの一人の時間をどのように過ごそうかと心を躍らせた。

 すぐに友達にLINEを送ったが、返ってきたのはどれも「台風が来るから家にいる」という覇気のないものだった。


 台風ぐらいで家にいるとはなんだ!

 お前たちは風が吹いたら喜んで外を走り回る子供じゃないのか!

 今から無茶無理をしない、小さくまとまった人間になってどうする!


 怒りのメールを立て続けに送ったが、子供心を失った友人たちの心変わりをさせることはできなかった。

 押しメンは簡単に変えるくせに、こんな時だけ意志が強いふりをするのだ。

 この軟弱ものっ!

 とは言えオレも、台風が近づいている中を一人で遊びに出る気にはならない。そもそも店も閉まっている可能性が高い。

 早めに食料を調達して、家でネット動画でも漁るか、ゲームでもするか……

 そんなことを考えているとスマホに電話がかかってきた。バイト先の社長からだ。急ぎの仕事が入ったのでヘルプに入って欲しい、バイト代は弾むとのことだった。

 素早く計算すると、貯金と合わせればPS4とVRのセットで買える金額になったので、すぐに了解し、自転車に飛び乗ってバイト先へ急いだ。

 この時には風は強く、空は曇ってはいたが、雨は降っていなかった。



 バイト先に着いてすぐにオレは状況を理解した。そんなに難しい話じゃない。いつもなら二十人ほどが一心不乱にキーボードを叩いていたり、マクドナルドで買ってきたハンバーガーのパンズの厚さを競っていたりするオフィスでオレを死にそうな目で待っていたのは、社長一人だった。賢明であり社畜ではない社員の皆さんは、台風が近づいているから、という理由で出社を拒否したのだ。

 台風ごときで仕事を放り出していいのか!

それでも社会人か!

でも、リスク管理がしっかりできている方が社会人にふさわしいってのが今風の考え方?

 高校生のオレにはよく分からない。

 しかし社長のすがる様な怒っているような顔を見れば、ここに立ってしまった以上は逃げることはできないのだと分かった。

 いつも使っているパソコンの前に座り、引き出しからブルーライトカット眼鏡を取り出して、かける。

 社長から送られてきたリストに並ぶタスクは尋常ではない量だった。

 オレはゲームソフト一本分に当たる金額をプラスするようにメッセージを送ると、返事を待たずに取り掛かった。

 風が窓を細かく揺らしていた。



 気が付くと、雨が荒々しく窓ガラスを叩いていた。外は真っ暗で轟々と風が鳴っている。

「本当に助かったよ」

 少し離れた席で、社長が立ち上がる。

 仕事は二人の頑張りで奇跡的に完了した。難しくはないが、半端ではない仕事量だった。時計を見ると予定よりも二時間ほどオーバーしてしまっている。

 これはバイト代の増額を請求しなければならないな。思わぬ収入に心の中で電卓を弾き、ニヤニヤしながら椅子にもたれかかっている間に、社長はそそくさと帰り支度を済ませている。

「車で送ろうか?それとも泊っていく?」と聞いてくれる。

 泊まるなんてとんでもない!お金が入ったからチャラになったとはいえ、急なバイトの為に貴重な一人の時間が大幅に削られたのは確かだ!残りの時間は有意義に使わなくてはならない。会社の臭い仮眠室で過ごすなんてまっぴらだ。

「自転車で来たので」

「置いていっても良いけど」

 二十万円もした高級自転車を置いて帰るなんてとんでもない!カーボンフレームのクロスバイクだぞ!

「いえ、乗って帰ります」

「ああ、そう」

 説得されたりはしなかった。急かされてオフィスを出る。

 駐輪場はビルの裏口と直結している。表玄関へ向かう社長とはエレベーターを降りたところで別れた。



 状況判断が甘かったことは素直に認める。

 尋常じゃない雨だった。

 バケツをひっくり返した、という表現があるがまさにそれがふさわしい、いやそれを超えている。これはもう、プールをひっくり返した、という表現がぴったりなほど激しい雨だった。

 自転車に乗るなんて絶対に無理だ!

 仕方がないが自転車は置いて帰って、車に乗せてもらおう。そう考えていると視界の端を、社長の車が走り去っていった。

 慌てて電話を掛けると、運転中であることを教えるメッセージが流れてきた。


 真面目か!


 スケジュールの見積もりは甘かったくせにそんなところだけ真面目か!


 優秀ではあるが今はまだしがないバイトであるオレは一人でオフィスに入ることはできない。

 駐輪場で突っ立って雨を見ていても仕方がない。深い溜息をつくと、自転車を押しながら雨の中に足を踏み出した。大量の水が、一気にスニーカーの中に押し寄せてきた。



 歩いている者など誰もいない、車もろくに通らない暗い住宅地をやっと家の近くにまで辿りついた時だった。

 何度目かの後悔をしていたオレはなんとなく顔を上げた。

 途端に雨が目に飛び込んでくる。迂闊な行動に新たな後悔をしながらも、空を見るのを止めなかった。

 碧い光がぽっかりと浮かんでいた。

 最初は暗い影としてそびえているマンションの明かりか、航空障害灯かと思った。

 しかしそれらの光が雨にかき消されてぼんやりとしたものになっているのに比べて、その碧い光はやけにはっきりと光っていた。

 しかもゆっくりと動いていた。

 こんなに激しい雨風の中を飛行機やヘリコプターが飛べるわけがない。

 となると未確認飛行物体、UFOか?大雨の中を地球に侵攻するというのはお決まりのシチュエーションだ!

 ただ気になるのは、その降りていく方向にオレの家があるということだ。

 留守を狙っての侵攻作戦か?社長もこれを狙って呼び出したのか!すでに宇宙人の手に落ちていたとは!留守番をしておらず、しかも侵攻にあったなどと知ったら母さんが超怒るだろうな、とみみっちいことを考えて暗澹な気分になる。

 風が自転車を揺らす。

 愛車を押さえつけ、現実逃避のくだらない妄想を打ち切ると、家の方向に、碧い光が降りていく方向に足を進めた。



 光の正体を確かめたいという気持ちもあったが、今は面倒事には巻き込まれたくないという気持ちの方が大きかった。その意味では、終わった線香花火のようにすっと落ちてくれるのがありがたいのだが、今のオレの歩みと同じぐらい、碧い光の落下速度はのろのろとしていた。

 それでも確実に距離は近づいているため、建物や樹木に隠れて見えなくなることがある。しかし、しばらくすると幻ではないことを教えるかのように姿を現す。

 ここに来て唐突に思い出したけど、青く光るなんてチェレンコフ光だったらどうすんの?被曝するの?もしかして某国の新型核兵器?


 しかしオレは足を止めなかった。

 人類を危機から守るヒーロー気取りだったわけじゃない。

 絶え間なく降り続けている雨は確実に思考力を奪っていて、どこへ逃げようかなどと考えるのが非常に面倒くさかっただけだ。

 なにより妄想通りに新型の核兵器だったら、今更逃げたって間に合うわけがない。

 次の角を右に曲がれば五十メートルほど先にオレの家があるし、光もその辺りに降りているはずだった。

 風雨は全く弱まらず、いつもなら自転車で三秒で駆け抜ける距離を、たっぷり三分かけて歩ききった。


 果たして、光はそこにあった。

 しかし光だけではなかった。

 女の人が宙に浮いていた。


 碧く長い髪の毛が波に浮かんでいるかのようにゆらゆらと靡いている。

 仰向けに、地面と平行に浮かぶ身体はゆったりとしたワンピースに包まれており、裾がふんわりと翻る。土砂降りの中に浮いているにも関わらず、濡れている様子がちっともない。

 碧い光は胸の上にあった。眩い光に照らされていて顔ははっきりと見えない。

 その時になって初めて、碧い光の正体が宝石の様なものだと気が付いた。


 碧く光る宝石を持った女の人が空から降って来ただって!


 勢いよく目に飛び込んで来た雨の痛みに、思わず目を閉じる。痛みをこらえながら目を開くと、さっきの光景がそのまま残っていた。

 飛行石?ラピュタは本当にあったんだ!ということはこの雨風は台風じゃなくて龍の巣ってことか?ゴリアテが、海賊船がいるのか?

 テンションが上がって真っ暗な空を振り仰ぐが何も見えない。雨が目に飛び込んできて痛みがぶり返しただけだ。

 一気にテンションが下がる。

 テンションが下がる理由はもう一つあった。

 降りてきている場所だ。とはいえ、オレの家の真上に降りて来たってわけではない。

 この道は今オレが立っている交差点で、二車線から四車線に代わる。この先にある線路を避けるために、真ん中の二車線は地面に潜るアンダーパスになるのだ。

 地面に潜るという構造上、雨が降ると非常に水が溜まりやすい。役人がさぼっているためなのか、市の財政に余裕がないためなのか、、近隣住民が長年要望を出し続けているにもかかわらず、水はけの悪さは改善されず、ちょっとした雨が降るとすぐに冠水してしまう状況が続いている。地元民は雨が降った時はこの道を避けて通る。

 この大雨である。

 道は当然冠水していた。道のど真ん中に大きな水たまりができている。

 碧い光は、女の人はその水たまりの真ん中に降りようと、落ちようとしているのだ。

 アニメ映画のように走って助けに行くことはできない。ざぶざぶと泳いでいかなくてはならないのだ。

 この暴風雨の中を!

 泳げないわけではないが、得意でもない。肉体系の仕事は苦手なガチガチの文化系人間だ。後先考えずに水に飛び込むなんてキャラじゃない。

 悩んでいる間にも女の身体はゆっくりと落下を続け、いよいよ入水する……ところで止まった。

 強風で波が立っている水面から三十センチほどの高さで、落下が止まった。

 しばらく待ってみたが、動きはない。

 ……アイサイトってやつか!ほら車の宣伝でやっている!前方に障害物があると自動でブレーキがかかるやつ!

 女は眠っているのか気絶しているのか、ずっと動きがない。となると、宝石の方にアイサイトのような機器察知能力が装備されていると考えるべきだろう。さすが飛行石!

 でも……、だとすれば……、

助ける必要ないよな?

 水たまりに落ちることはないのだ。雨に濡れている様子もない。だとすれば彼女は何も困っていないだろうし、困っていない人を助ける必要もない!よし、論破!

 自分を納得させると肩の荷が下りた感じでふっと気が抜ける。

 きっとその瞬間が狙われていたのだ。やっぱり地球侵攻のための大いなる陰謀が渦巻いているのだ。つまり、突風が吹いた。

「うわっ」

 大きく態勢を崩したオレは一回転半回った後、地面に倒れ込む。

 そして思わず手放してしまった自転車は風に運ばれ、そのまま女の人にぶつかった。

「うわああああああああああああ」

 飛び出た声は何に対しての叫びだったのかは分からない。

 跳ね返った自転車は、今度はガードレールに激突する。この視界が悪い中でも、頑丈なはずのカーボン製のフェンダーが曲がったのがはっきり見えた。自転車はそのまま、水たまりの中に沈んでいった。

 そして自転車がぶつかった女の人の身体も、水面ギリギリにまで高度が下がっていた。

 宝石から放たれていた碧い光は非常に弱まり、カラータイマーのように瞬いている。

「映画で見たようなシーン」だなと思っている間に、女の人はずぶずぶと水の中に沈んでいく。

 碧い光はいよいよ弱まり、光のせいで見えなかった女の人の横顔が見えるようになった。

 寝ているのか意識を失っているのか、目はしっかりと閉じられており、ぴくりとも動かず、ゆっくりと沈んでいく。

 まだ宝石の力が彼女を守っているようであるが、それが失われれば、一気に水たまりの中に消えていくだろう。

 ついに顔が水面の下に見えなくなった時、オレは何も考えずに水たまりへと走っていた。

 スニーカーの中には水がいっぱい溜まっていて走りにくかったが、水たまりに入ってしまえばそれも関係ない。水深はすぐに深くなったので、飛び込んで泳いだ。強風で高い波が立っているので非常に泳ぎにくい。バイト先からここまで自転車を押してきて、すでに疲労困憊状態だったが、必死に手足を動かした。

 女の人に辿りついた時、幸いにもまだ沈み切ってはいなかった。

「しっかりしろ!」と叫ぼうとして思い切り水を飲んだ。むせながら吐き捨てる。

 呼びかけるのを諦めて、女の人を抱えると、バタ足で泳ぎ始めた。まだ飛行石の力が働いているのか重さは感じず、むしろ行きよりも楽なぐらいだった。

 しばらくすると足先が地面に触れたので、抱えたまま立ち上がる。期待通り、非常に軽い。

 これは女の人って意外と軽いんだって考えるところではなく、飛行石の力に寄るものだと考えるのが正しいだろう。

 そうであれば、力が働いている間に次の行動に移らなければならない。光はすでに消えかかっている。

 ちらりと水たまりの方を見る。愛車の姿は全く見えない。沈んだのは一番深い場所だったので、今引き上げるのは無理だろう。

「朝一番で迎えに来てやるからな!」

 そう言い残して、道沿いに立つ我が家へ走った。

 わずかな距離ではあったが、飛行石はどんどんと輝きを失い、腕の中の重みはどんどんと増していく。水を弾く力も失われて、ワンピースはあっという間にずぶ濡れになり、更に重みが増していった。

 二年前に親父が買った中古の二階建て一軒家の前に辿りついた時には、飛行石の力は完全に失われていた。

 ずっしりと腕にかかる重みに耐えながら門塀を開け中に入る。屋根付きガレージの下に入るとようやく雨がしのげたが気を抜くことはできない。気合いを入れなおして玄関へ向かう。苦労して鍵を開け、やっと安全圏内に入ることができた。

 プルプルと手足を震わせながら、ゆっくりと女の人を下ろす。

「あ――――――――――――――」

体の奥底に溜まっていた全てを吐き出すように大きな声を上げた。

 嵐の中を水たまりに飛び込むだなんて本当にどうかしている。

 彼女に辿りつく前に溺れる可能性は十分にあった。

 家の前の冠水したアンダーパスで溺死なんて恥ずかしくて葬式にも出れない。

 今更ながら、恐怖に身体がガタガタと震える。

 あんなとんでもないことを自分がするなんて信じられなかった。

 でも、やった証拠は目の前にあった。

 間近で叫んだにもかかわらず、女の人……、少女は目を覚まさない。じっくり見ると、顔立ちから自分と同じぐらいの歳だと思えた。色が白く、綺麗な、整った顔立ちだ。

 髪の色は碧だと思っていたが、キラキラと光る白っぽい金髪、プラチナブロンドってやつだろう。飛行石の光に照らされて碧く見えたのだ。

 その飛行石は緩やかに盛り上がっている胸の上に在った。

 アニメの飛行石は丸っぽい水滴型だったと思うが、彼女が持っているのは鋭角的で細長い水晶っぽい形をしていた。上部に凝った細工が施された金属製の飾りが取り付けられており、それを通した金属製のチェーンで首にかけられている。水晶に文様などは刻まれていない。碧く輝いているが、光を放ったりはしていない。

 飛行石が上下動していることから、彼女が生きているのだと分かる。

 さてこれからどうすれば良いのだろう?

 警察か?救急か?

 冷静になると途端に現実的な問題が浮かんでくる。

「くしゅん」

 くしゃみが出た。とりあえず身体を拭かなくては。

 ずぶ濡れのスニーカーを脱ぐと、彼女をまたいで家に上がる。廊下に水が滴り落ちる。洗面所に行き、身体に張り付くTシャツを脱いで洗濯機に放り込む。タオルを一枚取り出して、頭と顔と上半身をガシガシと拭く。さっぱりすると少し落ち着いた気分になる。

 タオルを何枚か適当に掴んで廊下に出る。水浸しだが、仕方がない。後で拭こう。

 少女は眠ったままだった。

 改めて見ると、結構な美人だ。要所に金糸で細かな刺繍が施された高そうに見える白いワンピースは身体にぴったりと張り付き、均整の取れたプロポーションを露わにしている。うん、エロい。

 腰を下ろすと、少しドキドキしながら肩に触れてみる。動きはない。

「おい、大丈夫か」

 揺さぶって声をかけるが反応はない。力を強くしてみるが同様だ。

「いつまでも濡れているとやばいから、顔を拭きますよ」

 誰も聞いていないのに宣言をして、タオルを顔に押し当てる。他人の顔を拭いたことなんてないので勝手が良く分からない。

 驚くほどにまつげが多く、長い。プラチナブロンドの髪は眠り姫を艶やかに彩る。

 水滴だけでも吹き終えると、少し落ち着いた顔になった気がした。

 つまり、これだけ顔や髪を触りまくったのに起きる気配はない。

 では次のステップに移らなければならない。

「ごくり」と喉を鳴らしながら、横たわる肢体に目を移す。

 濡れた服を着せたままでいるわけにはいかない。脱がせて身体を拭かなければ風邪をひく。この行為は確実に彼女のための善行なのだ!

 その前にもう一度肩を揺らして呼びかけるが、やはり目を覚まさない。

 仕方がない。

「失礼します」

 声をかけてから背中に手を回し、身体を少し起こす。

 ワンピースにファスナーはない。

 つまり、「足の側から裾をたくし上げて行き、頭から脱がさなければならない」と口に出してこれからの作業を確認する。

 足の側に移動する。ひざ丈の裾から、傷一つない、白くて細い脚が伸びている。

 少女の顔の表情を気にしながら脚に触れる。すべすべとして柔らかな肌触りだった。気になるのは冷たいことだ。やはり冷えているのだろう。

 顔の表情は変わらない。さっきあれだけ顔や頭を触って起きなかったのだから、今更脚を触ったぐらいで起きたりはしない。

 オレは意を決っして裾を持つと、ゆっくりとたくし上げていく。

 気を失っているのに行儀よく揃えられた脚が徐々に露わになっていく。

 粗相を起こさないように目を凝らす。

 思っていたよりも順調に作業は進んだ。

 山場を迎えて、ふーっと息をつく。いつの間にか額には大粒の汗をかいていた。

 さて、パンツが見えるギリギリのラインだ。

 グラビアや、ネットに溢れている画像で、女の子のパンツなんて見慣れている。付け加えれば裸だっていっぱい見ている。

 しかし、生のパンツを見るのは初めてだ!しかもこんなに間近で!

 だからと言って俺に迷いがあるわけじゃない。男が一度決めて始めたことだ。最後までやり遂げて見せる。

 一応少女の顔の動きに変化がないことを確認してから、作業を再開した。

 飾り気はないが、やはり高級そうな生地で作られた白いパンツだった。

 関門を突破したオレはしげしげと観察するなどという非紳士的な行動は取らずに、すぐに次の作業に移る。

 まずは腕を動かしてバンザイの体勢を取らせる。

 裾をたくし上げていくとなだらかな曲線を描くお腹が露わになる。その次に見えてくるのはブラジャーだ!服の上からの目算でも、Cカップは確実だ!

 一刻でも早く彼女を快適な状態にしてあげようと再び裾に手をかけた時、存在を完全に忘れ去っていた硬い物体、飛行石に手が触れた。

 その瞬間に飛行石から碧い光が放たれた。

「うわっ」

 思わずのけぞって目を閉じる。

 光が放たれたのは一瞬だけだった。

 熱や痛みに襲われていないのを確認しながらゆっくりと目を開く。

 ばっちりと目を見開いている彼女の目が合った。

 気の強そうな、青緑色の炎が燃えているような双眸。

「この不埒もの!何をする」

 落ち着いていて涼やかで、しかしドスがきいた声が投げつけられた。

「何をするって、いや、身体を拭いてあげようと思って」

「ほう……」

 半身を起こした少女は羞恥心のようなものを見せずに落ち着いた様子で、たくし上げられていたワンピースの裾を下ろしていく。

 両眼はオレを睨みつけたままだ。

「説得力がないわね」

 その視線はオレの裸の上半身に向けられていた。

 やってしまった。

 確かに、拭いてあげるのに自分も裸になる必要はない。

「こ、これは、オレも濡れていたから脱いだのであって、決っして変なことは考えていなくて。ほら、タオルタオル」

 後ずさったオレは手に触れたタオルを掴んで必死で振って見せる。

「ではそれを渡しなさい」

「はい、はい、どうぞ」

 へっぴり腰で差し出したタオルを、白くて細い指がむしり取っていく。

 一度匂いを嗅いでから、少女は顔にタオルを押し当てた。


 さて、これからどうする?


 身体を拭くことを優先させただけで少女の警戒心は解かれていないし、信用されてもいない。

 今は光ってはいないが、胸にぶら下がっている飛行石の力は未知数だ。空を飛べるぐらいなのだから、彼女がその力を自在に操れるのならオレなんてイチコロだろう。

 イヤイヤ、なんでオレがそんな目に合わなくちゃいけないんだ。

 そもそもオレは彼女を助けただけじゃないか!

 非難されるような言われはない。

 彼女からは面倒事を抱えている匂いがプンプンする。人命救助は果たしたのだからこれ以上は関わり合いにならない方が良い。今こそ、国家権力、警察の出番だ。

 少女が身体を拭く様子をびくびくと見ながら、今後の方針をまとめた。

 その時、ピンポーン、とこの場の雰囲気にはそぐわない少し気の抜けた電子音が響いた。玄関の呼び鈴だ。

 少女が怪訝な顔を見せる。

 ピンポーン、もう一度鳴った。

 オレは勢いよく立ち上がると、彼女の横を急ぎ足で通って玄関のドアへと急いだ。

「はいはいただいま」

 誰だか知らないけれど、渡りに船だ。この現状を壊してくれるのならどうでもいい。

 鍵を開けた時に、少女の緊張した声が背中に届いた。

「ダメだ!開けるな!」

 しかし切羽詰まっていたオレの行動は止められなかった。

「どなた様ですか?」

 ドアの向こうにいるのはオレの知っているどなた様でもなかった。眼鏡の野心家が率いる軍人たちでもなかった。

 巨大な目を持つ、カマキリとトカゲが合体したような顔だった。

 腹に焼けるような感触を受けた。

 次の瞬間には腹から肩へと何かが走った。

 オレは倒れる前に、カマキリトカゲ頭が何匹もいるのを見た。そいつらは倒れたオレの身体を踏みつけて家の中になだれ込んでいく。少女の叫ぶ声と爆発音が聞こえる。

 不思議と痛みはなく、ただ、身体がやけに熱かった。熱い一方で身体からどんどんと力が失われていく。

 寒い。

 今まで味わったことがないとんでもない喪失感。

 それを声にすることも、表現することも、そして考えることもできなくなって、オレの意識はぶつりと途切れた。















 痛い


 痛い


 痛い


 オレは全身を襲う痛みに意識を覚ます。


 寒い


 痛い


 全身を強い雨に打たれていた。

 はっと気が付いたオレは反射的に腹に手を伸ばす。自転車がガシャンと倒れる。

 Tシャツは濡れているが血ではなく雨だ。腹にも肩にも傷はない。

「なんだったんだ」

 のろのろと自転車を立ち上げる。

 立ったまま夢でも見ていたのだろうか?

「やばいな」

 だとしたらとんだ働き過ぎだ。バイトを入れるのもほどほどにしなくてはならない。そう自分を納得させて歩き始めようとした時、暗い雨空の中に浮かぶ碧い光を見た。

 ドクンと心臓が鳴る。

 腹に言いようがない違和感が詰まっている気がする。猛烈な吐き気が襲ってくる。

 殺された時の感触と、どうしようもない絶望感がまざまざと蘇ってきた。

 そうだ、夢なんかじゃない。オレはあの時確かに、カマキリトカゲ頭に腹を刺されて死んだのだ。

 では今のこの光景は何だ!

 身体を打ち付ける雨が、強風が、自分がここにいることをはっきりと教えてくれる。

 オレはゆっくりと、光が降りていく方向に足を進めた。



 角を曲がる。

 その先にあるアンダーパスはいつもの大雨の時と同じように冠水している。いつもと違うのはその上に碧い光が浮いていることだ。

 光だけではない。少女の姿もそこにある。

 確かに一度見た光景だ。

 大雨の中でだらだらと脂汗をかく。

「ループしている」

 結論はそれだった。

 映画や漫画なんかでたまに見る設定だ。主人公は何らかの要因に巻き込まれて延々と同じ状況を繰り返し続けることになる。まだ一度しか経験していないからはっきりとは言えないが、オレの場合は死ぬと、碧い光を見る瞬間に戻るということなのだろう。

 この手の状態に巻き込まれると、その要因となっているなにかをクリアしない限り、何回も同じ状況を繰り返すことになる。つまりオレの場合は何回も死ななければならないのだ。クリアしなければならない何かは、今の時点ではさっぱり分からない。目の前に浮いている少女や、カマキリトカゲ頭が関係している可能性が高いが、何をすれば良いのか分からない。物語ならば、当然少女の味方をするべきなのだろうが、意地悪な作者ならその逆を取る可能性だってある。

 何にせよ、オレはもう死ぬのは真っ平ゴメンだ!

 突風が吹いてきたが、ハンドルをしっかりと握っていたために、自転車が飛んで行ったりすることはなかった。

 少女と飛行石は相変わらずアンダーパスにできた水たまりの上に浮いている。

 またじんわりと、腹を刺された時の感触が戻ってきた。

「よし決めた!」

 一目散に家へと向かった。光の方を見ないように注意しながら、自転車が飛ばされないようにハンドルをしっかり握りながら、可能な限りの急ぎ足で家へと向かう。門塀を開けるとガレージの奥に自転車を置き、玄関のドアを開けて家の中に入る。あっさりと、すんなりと、簡単にできた。

 あの綺麗な顔を見ることはなかったが惜しくはなかった。そもそもオレは綺麗系よりもかわいい系の方が好きなのだ。高飛車な態度もタイプじゃない。オレ好みの女の子にしなかった作者の設定ミスだ。

 厳重にドアの鍵を閉めると、風呂場に飛び込む。ずぶ濡れの服を全て洗濯機に放り込んで洗濯を開始する。

 熱いシャワーを浴びた後でずぶ濡れになった廊下を掃除し、ミルクをいっぱい飲み干した後でベッドに飛び込み、頭まで布団を被った。念仏のように「バルス、バルス、バルス」と唱えてみる。

「眠れるだろうか?」そんな不安が頭の片隅をちらりと横切ったが、肉体的な疲労に若い身体はあっさりと負けて、あっという間に眠りに落ちた。



 翌朝、電話の音で目を覚ました時、いつもと同じようにベッドの上にいた。

 電話は無事を確認する母親からのものだった。

「大丈夫だって、何にもないよ」

 そう言いながら腹をさする。

 大丈夫。なんともない。

 家の中には誰かに踏み込まれたような形跡はなかった。

 台風一過というやつだろう。外に出ると突き抜けるような青空で、燦々と陽が輝いている。

 アンダーパスの近くにまで行くと、水は完全に引いていた。いつもより水はけが良い。変わったところと言えば、コンクリートの壁のあちらこちらに焼け焦げたような跡が見える。鉄製の標識がひん曲がって落ち、地面に突き刺さっている。

「昨夜は大変だったわね」

 通りかかった近所のおばさんに声をかけられた。

「何かあったんですか?」

「近所にいっぱい雷が落ちたみたいで、何軒か火が出たのよ。幸いすぐに消えたみたいだけど」

「そうなんですか。ぐっすり寝ていたから、全然気が付きませんでした」

「あの騒ぎの中で寝ていられるなんて、鈍感ね」

 おばさんは失礼なことを言い残して去って行った。

「腹が減ったな」と気が付く。そういえば昨晩からなにも食べていない。

 冷蔵庫に何か入っているか、それともコンビニに走るか、そう思いながら家に戻ったところで焼け焦げた自転車を見つけた。

 どうやらこの自転車は、どうあってもダメになる運命だったようだ。



 その後の俺の人生には、碧い光を放つ宝石も、カマキリトカゲ頭の兵隊も現れなかった。

 自分の口から平々凡々とは言いたくないが、歴史の教科書に載るような大それたことは何もなかった。

 一つ上げるとすれば、住んでいた町が丸ごと消失したぐらいだ。

 ガス爆発とか、不発弾が爆発したとか色んな説が流れたが、はっきりとしたことは最後まで分からなかった。

 オレの家族は隣の県の親戚の家に出かけていたため無事だったが、友人や社長や近所のおばさんは皆行方不明になった。

 悲しい出来事ではあったが、時間は色んなものを忘れさせてくれることを知った。そのまま隣の県に移り住んだオレは二度とその場所に帰ることはなく、ゆっくりと記憶を風化させていった。最初は騒ぎ立てていたマスコミも一年経つ頃にはすっかり話題にしなくなっていた。十年ごとぐらいに追悼番組を行うぐらいだ。

 人間生きていれば、次から次へと様々なことが起こる。

 一々過去を振り返ってはいられない。

 存在していたかどうかも分からない過去なら尚更だ。

 しばらくは腹を剣で突かれる夢を見て跳ね起きたりしていたが、いつの間にか、すっかり忘れ去るようになっていた。

 好みのタイプではないが高飛車でもない女と結婚して子供ができた。孫ができ、ひ孫、玄孫までできた。

 仕事は挫折や成功を繰り返しながら、最終的には自分で満足できる結果を残すことができた。

 世界は激しく変わっていくようで、何も変わっていないようにも思えた。

 人はいまいる環境に合わせて自分を変えて生きていくことができる。中には逆らってばかりいる者もいるが、オレは流れに身を任せて落ち着いた生活を送ることを選んだ。

 嫁が亡くなってからはぼんやりと過ごす日々が増えた。好みのタイプではないがいなくてはならない存在だった。嫁と過ごした日々をぼんやりと思い出している間に十年が経っていた。自分はもうすぐ百歳になるらしい。

 最近は色んな事があやふやになっていた。

 自分が寝ているのか起きているのかもはっきりしない。

 誰かと話をしていても、何を話しているのか判然としない。

 ある日、何となく、ああ、自分は死ぬのだな、と気が付くが、それに対する感慨は何もなかった。

 やれることはすべてやった。

 なんの後悔もない。

 子供たちやその連れ合い、孫に囲まれていた。

 皆が自分に話しかけてきているが何を言っているのかはよく分からない。

 分からないがもうなにも怖くなかった。

 世界はぼんやりと白くなっていき、全てが終わった。










 痛い


 痛い


 痛い


 久しぶりの痛覚に顔を顰める。

 こんなに強い刺激を受けたのは久しぶりだ。

 強い雨に打たれていた。

 雨のせいで視界は悪いが、それでも最近よりはよっぽどクリアに物が見えた。

 目の前にあるのはすっかり忘れていた光景だった。

 しかし、空に浮かぶ碧い光を見た瞬間に全てをまざまざと思い出した。

 そして本音が漏れる。


「え?ここから?」


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