【遺書】
誰もいない我が家。わかっているのに、長年染み付いた習慣で、自動的に発声される言葉。
「ただいま」
暗い玄関に飲み込まれる独り言は、虚しいだけだ。いい加減どうにかしたいと考えつつも、どうにかなるものじゃないと諦めている。ため息もつけないほど、どうしようもないことだ。
妹が自殺する前は、母が必ず夕食を用意して家にいた。まだ高校生だったからだろう。雨が降れば駅まで送迎して、朝食を作って送り出して、バラバラの時間で帰ってくる僕らのためにいちいちおかずを温め直してくれた母。妹が帰ってこない日常に、母は一週間も耐えられなかったようだ。もともと、フルタイムで働かないかと誘われていたらしい。母はまだ仕事中だ。たぶん。父はもとから帰りが遅かったことに、今さら一抹の不満を覚えるけど、どうしようもない。
「まだ四十九日も過ぎてないのに、な」
コンビニ弁当を手に二階の自室に直行する。もう家族そろうことのない食卓で、わざわざ一人で食べる必要もない。
ずっと当たり前だった日常が、こうも変わってしまうとは。普通の家庭だった。問題らしい問題なんてなかった。今でも――妹が自殺した今だからこそ、なおさらそう思いたい。やっぱり、補正がかかっているんだろうか。
わからない。せめて遺書くらい残してくれれば。
簡単にバランスを失って、崩れた日常。確かに、妹は僕の日常を支えていた柱の一つだったんだ。失って初めて気がつくとはよく言ったもので、僕は妹のカタチをした欠損に苦しむなんて思わなかった。
ノートパソコンの電源を入れて、割り箸を割る。行儀が悪くても、見咎める人は誰もいない。一日の大半を、人の目を気にして消耗しているんだから、このくらいゆるされるだろう。もう、この家はぬくもりを失ってしまった。そう、失って初めて気がつくとはよく言ったもので、僕は何の変哲もない我が家にぬくもりと安らぎを得ていたんだ。
ひと口、ふた口、箸が止まる。なんて名前の弁当だったか、もう思い出せない。黒ごまがふってある白いご飯に、唐揚げとか白身フライとか、美味しくもない弁当は、平らげられることなく、脇に追いやられる。
ばかばかしい。
本当に、ばかばかしい。
なんで、殺人鬼の遺書を読んだら、死者の声が聞こえるんだよ。オカルトもいいところだ。
そもそも、遺書が存在するかどうかも疑問だというのに。
そもそも、僕は遺書を探しているんじゃない。妹の自殺の理由を探しているんだ。遺書を探すのは、あくまでも手段だ。目的じゃない。だいたい、あの妹がいじめられていたとか、何か悩んでいたとは考えられない。わかりやすいやつだったんだ。
あの時も、そうだった。
――お兄ちゃんさ、そんなに仕事したくないんだったら、辞めちゃえばいいじゃん。
まだ社会人一年生の僕だ。それなりに、苦労して当然だし、気疲れだってするに決まっている。新生活というものは、華々しく始まるのではなくて、そういう地味なストレスになれるところから始まるものだ。そういうものだと、割り切っている。
それなのにあの妹は、僕のため息が増えたからと、そんなことを言ってきたことがある。気になったことは、うやむやにできない性分だった。
楽しく仕事をこなしている社会人が、この国にいったいどれだけいるのだろうか。
ブラック企業とかよく聞くけど、僕にはまだ無縁な単語だ。
そもそも、ブラック企業ってなんだよ。
休みがない。過労死ラインを超えるサビ残。人権を無視したパワハラ……そういったエピソードは、後を絶たない。僕はそういったエピソードから、ブラック企業を組み立てるしかない。でも決して、はっきりとした像を結ぶことはない。他人事だから。
SNSでそう言った愚痴をこぼせば、転職をすすめるリアクションもよく見かける。よく顔も知らない他人の人生に介入できるよな。僕には無理だ。
あの時、僕は妹になんて返事をしたんだろうか。
「くっそ」
忌々しい。
なんのこともない過去すらも、僕を悩ませる。
「遺書なんか、どうして……」
ついつい強く唇を噛んでしまう。
毒島武人の遺書。
ネットの何処かにあるというソレを、なぜ妹は探していたのか。
興味本位だったのか。好奇心だったのか。それとも、死者の声が聞きたかったのか。わからない。わかりやすいやつだったのに。隠し事なんてできやしない。すぐに顔に、声に出てしまうやつだった。だから、いじめられてたりとか、死にたくなるような悩みがあったとは思えない。
スクロール、スクロール、クリック、スクロール、スクロールスクロール……
『毒島事件 自殺 遺書 死者の声』
なぜ、妹は自殺する前に、なぜその単語たちを検索していたのか。
自殺に関係なかったかもしれない。でも、理由がほしい。僕のせいじゃないと、確信できる何かが欲しい。会話が途切れたままの、暗い我が家は息が詰まる。
妹のことを、僕が今どう思っているかなんて、考えたくない。
焼身自殺をした殺人鬼の遺書が、そもそもネットのどこかにあるというのが、ばかばかしい。
十八年前のネット社会は、まだ日常生活の一部ではなかったらしい。だから、なおさら不自然ではないか。なぜ、ネットなんかに残す必要があったのだろうか。わからない。殺人鬼の考えなんて、わかりたくもないが。
僕は毒島武人の遺書を探しているんじゃない。妹の遺書を探しているんだ。
なぜ、自殺なんかしたんだ。悩み事でもあったのか。せめて母にくらいには、相談してもよかったんじゃないか。あの日だって、いつも通りだったじゃないか。
――やっぱ行方不明の親族って殺されてるっしょ。まじ半端ないって、毒島。普通にイケメンだし。いやいや、イケメンじゃないっしょ。ブスってわけじゃないけどな(笑)マジレスすると、トリカブトの別名の附子ってのが由来らしいよ。マジ?
僕は、毒島武人の遺書なんか、興味ない。死者の声が聞こえるとか、そんなオカルトじみた話、信じられるものか。
――誰か遺書を読んだことある人ぉ?いるわけないだろ。俺、十八年前、個人サイト作ってたけど、ぜんぜんそんなこと知らんし。え、でも、あったら読んでみたくない?みたい。読んでみたい!!
いつから、死者の声が聞こえるなんて都市伝説になったんだろうか。最初は、ネットのどこかに遺書がある。それだけではなかったか。それが、いつから死者の声が聞えるって設定になったんだ。くだんのテレビ番組を、僕は見ていない。動画がどこかにないかと探すけど、見つからない。もしかして、あの冒頭の二行が独り歩きしただけではないか。いったい、どこに毒島武人の遺書があるんだ。死者の声が聞こえるというのなら、僕は妹の声が聞きたい。まだ四十九日になっていない。この家に残っているはずだ。――いや、あれは、四十九日目に三途の川にたどり着くって話だっただろうか。
「どうでもいいから、毒島武人の遺書を見つけて…………あれ?」
頭から血の気が引いていくのがわかった。僕は今、なんて言った。
毒島武人の遺書を見つけて
「違う違う違う違う違う!」
僕は妹の自殺の理由を――妹の遺書を探しているんだ。
妹を想う気持ちからではなくて、自分を責める苦しみから逃れるために。
殺人鬼の遺書なんか、興味ない。それが唯一の手がかりで手段だっただけだ。
「いつからだ…………いつから、僕は
自分の声が、虚ろに聞こえる。
僕は、いつから妹の自殺の理由ではなく、毒島武人の遺書を探していたんだ。
わからない。
僕は、僕を見失ってしまったのか。
それでも、僕の右手はまだマウスを手にしている。
スクロール、スクロール、クリック、スクロール、スクロールスクロール……
やめられない。
心が拒絶しているのに、僕はモニターから目が離せない。
脳みそは、少しでも多くの新しい毒島事件の情報を逃すまいとしている。
目新しい情報なんてあるわけがないと、わかっているのに。話題が収束する前にと、何かが僕を急き立てる。
「なんだ、これ」
僕はその情報を、何度も目を走らせた。
――毒島事件の犯人の遺書、まじやばいって。みんなもう話題にしないほうがいいよ。この前、その遺書を探していた知り合いの男が自殺したんだ。あれ、本当は読むと自殺しちゃう遺書なんじゃないかな。
読んだら死者の声が聞こえるのではなくて、読んだら自殺する遺書だったということか。
ごくりと、喉が鳴った。
妹は遺書を見つけてしまったから、宙ぶらりんになったというのか。
「デマかもしれない」
僕は毒島武人の遺書を見つけなきゃいけないんだ。死者になった妹の声が聞きたいんだ。
けれども、探していた人が自殺したという真偽不明のエピソードは、それだけじゃなかった。僕の脳みそは、毒島武人の遺書を探す手がかりとして一つ残らず吸収していった。
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