【毒島事件】

 平成十二年九月に起きた不可解な凶悪事件。


 僕にとって、毒島事件はその程度の認識だった。

 十八年も前の事件なんて、二十二歳の僕にとって別世界の出来事だった。被害者の中に僕と同じ五歳の男児がいたからか、母はいやにピリピリしていたのを、なんとなく覚えていただけ。


 家族連れで賑わう白昼の都市公園を、恐怖のどん底に陥れた無差別殺人。

 鉈や金属バット、バールのようなものなどなど、複数の凶器をあらかじめ公園の植え込みなどに隠しておいたことから、計画的犯行とされている。

 実に合理的だと、僕は思う。凶器を持たずに被害者に近づいて、隠しておいた凶器を何食わぬ顔で振り上げて振り下ろす。最初の被害者の男児を含めた四人は、うつむいていたらしい。目の前に誰かが足を止めて、おやと思って顔を上げたときには凶器は目の前に迫っていたことだろう。

 まぶたを閉じなくても、毒島武人の犯行は脳内でエミュレートできる。


 見知らぬ公園の芝生。

 九月のまだ秋めいていない空。

 走り回る子どもに、ジョギングしている老夫婦。

 その中から植え込みの近くでしゃがみこんでいた男の子を見つける。

 近づいて、足を止めて、身をかがめて植え込みから金属バット――あるいは鉈を握る。

 子どもが僕の気配に気づく。

 振り上げて、振り下ろす。

 当たり前だけど、なんの実感も感慨もともなわない虚しいだけの妄想エミュレートだ。

 ゲームよりも無感動で、これっぽっちも毒島武人の考えていたことなんてわからない。


 被害者の七人に毒島武人との接点はなく、また被害者の七人のなかにも接点はなかった。ある証言によれば、七人目の女子高生をバールのようなもので撲殺したあと、笑ったらしい。ほっとしたような、達成感のある笑みは、凶悪犯にはふさわしいものではなかった。だからこそ、ソースのわからない証言は異常性を際立たせる逸話として残っている。

 毒島武人は、凶器と同じようにあらかじめ隠しておいた灯油を頭から被り、焼身自殺した。警察は、街角の防犯カメラや灯油の購入ルートから犯人を割り出したらしい。きっとそれほど難しいことじゃなかったはずだ。日本の警察は優秀らしいから。

 当初、遺書らしきものは見つからず、毒島武人を知る人は口をそろえて、真面目で普通の青年だったと言う。

 毒島武人の父は事件の四年前に、母も半年前に他界していた。姉とその夫と娘の三人が彼の親族だが、事件の数日前から行方不明。十八年経った今でも、彼らの消息は不明。おそらく、毒島武人が殺害し、どこかに遺体を遺棄したのではないかとされているけども、真相は闇の中。


「死人に口なし、か」


 数年前に高架化された駅のプラットホームに上がると、急に空気の流れが変わった気がした。少し歩けば脱いで邪魔になるだろうコートの襟を立てる。


 ――歩きスマホは、危険ですのでおやめください。


 そんなアナウンスなくても、わかっている。歩きスマホをやっている人も、わかっているはずだ。

 今も前を歩く女がスマホをしまおうとしないから、僕は十分に距離を開けて歩く。そうしないと、いつ立ち止まるかわからない。

 以前、スマホに夢中で後ろに注意を払わずに、急に立ち止まった高校生にぶつかってしまったことがある。なぜか僕が睨まれた。理不尽だったけど、気にしないことにした。ほんの数年前まで、僕もああだったのだろうという罪悪感が、僕の怒りにフタをさせる。

 前を行く女に向かってきた男が、わざとらしく舌打ちをする。


「ちっ」


「何あのおっさん」


 不愉快そうに女が聞こえよがしにボヤいて、終わりだ。

 歩きスマホの女も、舌打ちしかできない男も、朝の人の流れの一部となって僕の意識セカイから離れていく。名前を持たない群衆の一部。僕も、同じだろう。


 ――黄色い点字ブロックの内側に並んでお待ち下さい。


 わかっている。というか、前は白線の内側じゃなかったか。いったいいつから点字ブロックに変わったのだろうか。クレームでもあったのだろうか。


 そんなことはどうでもいい。


 毒島事件が、十八年経った今ごろになって話題になったのは、平成最後ということで平成の凶悪事件を振り返ったテレビ番組がキッカケだった。


 テレビ離れとかなんとか言っているけど、世間に共通の話題を提供してくれるのは、マスメディアだ。もちろん、個人のSNSの発言が炎上することもあるけど、マスメディアは、まだまだ現代人に欠かせない存在だ。


 毒島事件のあと、ネットのどこかに毒島武人の遺書があると、噂があったらしい。

 当時はまだネット環境が普及する前のことだったから、アンダーグランドにいたオタクたちが某掲示板などで持ち上がった噂だった。

 テレビ番組では、面白おかしく遺書の噂まで取り上げてしまった。存在するのかどうかも怪しい遺書の話を。


 ――まもなく、四番ホームに列車がまいります。


 遺族はどう思ったんだろう。ふとどうでもいいことを考えながら、スマホをコートのポケットにねじ込む。


 自殺した毒島武人は、何を言われても文句は言えない。悪しざまに言われようが、精神異常のサイコパスとされようが、死んでいるのだから文句の言いようがない。

 けれども、被害者の遺族はどうだろう。被害者はみな善良な人たちだったと放送されたけども、本当にそうだったのだろうか。補正や虚像が混ざっているのではないだろうか。


 電車を降りる流れが途切れたあとで、電車に乗り込む。


 この電車の中に、いったいどれだけの人が善良なのだろうか。潔癖とまではいかなくても、誰からも憎まれたり恨まれたりしたことがない人がどれだけいるのだろうか。


 毒島武人の遺書を読めば、死者の声が聞こえるらしい。

 吊革につかまってスマホを取り出す。


【毒島事件 遺書】


 毒島武人の遺書は存在しているのだろうか。

 あんなオカルトじみた都市伝説なんて信じていない。けど、妹の自殺の理由を知る手がかりがあるはずなんだ。


 毒島武人の遺書には、たった一つだけ共通していることがある。


『死者の声を聞いたことがあるか?

 僕はある』


 そう始まるらしい。

 冒頭の二行だけが手がかりだというのも、どこまで信じたらいいのか。


 僕は、いったい何をしているのだろう。

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